なぜ日本に浸透しない? 普及を阻む3つの壁
デジタル給与払いには国や企業、そして働く人にもメリットがあるものの、日本企業における導入はまだ進んでいない。2024年10月、帝国データバンクが1,479社に対して実施した調査によると、企業の88.8%がデジタル給与払いの「導入予定はない」と回答し、「導入に前向き」と答えた企業はわずか3.9%にとどまっている。

日本におけるデジタル給与払いの普及を妨げる要因として、長内氏は3つの大きな課題を指摘する。
1つ目は、使えるデジタルマネーが少ないことだ。2024年8月に初めてデジタル給与払いを行う資金移動業者として国から認可を受けたPayPayに続き、リクルートMUFGビジネスが同年末に2社目として認可を取得した段階であり、「今後、また新たに2社が審査を通過する予定ですが、それにしても使えるデジタルマネーの種類が限られています」と長内氏は指摘する。
このような状態では、導入を検討する企業にとっては「新しいサービスが本当にメリットをもたらすのか」「むしろコストや事務負担が増えるのではないか」との懸念が浮かび上がるだろう。これが課題の2つ目だ。特に、コストやバックオフィス業務の負担増加を警戒する企業は多く、先行する企業の動向を見極めながら慎重に検討するといった傾向が、普及を阻む一つの要因といえる。
3つ目の課題は労働者の慎重な姿勢だ。長内氏は「労働者は、生活資金を本当に資金移動業者に任せていいのか、信頼性の懸念が強くあります」と指摘する。資金移動業者は銀行と比べて歴史が浅く、倒産リスクへの不安も根強い。そのため、労使交渉の場で導入に慎重な意見が出やすい傾向にあるという。
このような信頼性への懸念を払しょくすべく、政府としてもデジタル給与払いを行う資金移動業者に認定する基準を厳しく敷いている。「資金移動業者が倒産した場合、6営業日以内に労働者に賃金相当分を支払うシステムを整備することが審査基準に含まれています。これは労働者保護の観点から設けられた基準ですが、同時に事業者にとってのハードルにもなっています」と長内氏は説明する。

バックオフィス改革の要は“システム選択”
デジタル給与が身近になるまでにはまだ時間がかかるようだが、「実は導入すれば経理の給与支払いに関する業務は効率化される可能性があります」と長内氏。給与支払い関連業務を包括的にシステム上のフローに乗せてしまえば、紙の書類などを介する余地がなくなり、結果として効率化が期待できるという。
今後デジタル給与払いを導入する場合、IT部門が大きく関わることになるのがこのシステム導入だろう。長内氏は「給与システムとの統合や、新たな業務フローの整備など、検討すべき事項は多岐にわたります。特にパッケージ製品の選択には慎重な判断が必要です」と指摘する。
システム導入の選択肢は大きく2つに分かれる。1つは給与システムのパッケージ製品を活用する方法だ。「パッケージされたシステムを導入すれば、事務面での負担が軽減される可能性が大いにあるでしょう」と長内氏は分析する。もう1つの選択肢は、資金移動業者と個別に契約を結ぶ方法だ。この場合、資金移動業者に合わせてシステム対応や業務フローの整備を自社で調整していく必要があるため、マニュアルの作成から従業員への説明資料の準備まで、多くの作業が発生すると予想できる。
さらに必要なのがシステムをクラウド化するか否かの判断だ。「クラウドを活用すれば、既存の業務管理システムとの連携がスムーズになり、負担を軽減できる可能性があります」と長内氏。とはいえ、導入コストと利用規模による費用対効果のバランスが取れなければそもそもシステム導入に至らないため、そのあたりを各社で見極めていく必要があることも指摘する。
実際にシステム運用を検討する際には、システム開発のアウトソーシングと内製化が重要な判断ポイントとなる。システム運用をアウトソースすれば社内の負担は軽減されるが、継続的なコストが発生する。内製化の場合、当初は外部の助言を受けながら進め、徐々に自走する形を目指すことになる。自走まで持っていければランニングコストは抑えられるものの、内製化の仕組みを整えることは容易くないだろう。
特に注意すべき点が障害発生時の対応体制だ。「資金移動業者のシステムに障害が発生した場合や、自社システムとの連携でトラブルが起きた場合、誰がどこまで責任を取るのか。自社で対応する場合、どう対応すべきか。障害対応フローを事前に整備しておく必要があります。給与支払いは従業員の生活に直結するため、BCPの観点からも重要です」と長内氏は強調する。
「導入を検討する企業は、まず自社の規模や業務フローに合わせてパッケージ製品の活用とスクラッチ開発のどちらが適しているか見極めることが重要です。その上でクラウド化の範囲などを検討し、最後に運用体制の整備を行うという流れが望ましいでしょう」(長内氏)