社会的教訓、<構築と承継>の西洋と<忘却>の日本
鈴木:隠蔽されてきた事実や関わる当事者がいる社会に斬り込んでいくとなると、当然ながら反発が出ますよね。これはどう克服していくんですか。
井出:欧米だと、医療事故や航空機事故が発生した場合、個人の責任を追及せず、刑事免責に出して社会としてどう教訓を承継するか、という話になる。一方、日本の場合、責任がある人を弾劾して個人責任を追及する傾向にある。その価値観が薄まればダークツーリズムの方法論が生かせるようになりますね。社会として教訓を受け継ぐために、個人の責任を追及するよりも記憶の承継のあり方を探る。諸問題に対して誰が悪いとかを言い出すような仕組みをかえていくのが重要です。
鈴木:ええ、似たような話しかどうかわかりませんが、法学分野には、自動走行車が死亡事故を起こしたら責任は自然人の誰に帰するのかという議論があります。運転手がいないところで責任追及していくこと自体少し空しさを感じる時もあるのですが、例えば、名目的な刑事責任をたまたまその運用事業者の保守担当役員に就いていた人に問うのだとすると凄くそれが稀釈化するのではないかという議論もあります。かといって誰の責任も問わないというのも収まりがつかない。遺族感情の問題もあります。
井出:ヨーロッパだと死刑がないので大量殺人がおこっても、被害者のケアや犯罪が生まれた社会における教訓の<構築と承継>の話になるが、日本は大量殺人がおこれば、犯人が死刑になって一段落、社会的には忘却されます。教訓を抽出する作業をしない。責任の取り方の仕組みがヨーロッパと全く違うことから見ても、ダークツーリズム的方法論が受け入れられにくいところがありますよね。
鈴木:何かあれば、その責任者が皆の前で腹を切ってけじめをつけることで、世間のマインドをリセットして、水に流して前向きに進んだ方が良いのではないかと。日本の場合そういう話は世間に受け入れられますよね。過去と向き合い続け、教訓としていくためには、その向き合う力や分析する知識や強靭な精神がないとならない。そういう厳しいところを、日本の世間一般にまで求めることができるんでしょうか?
井出:その点で言うと、キリスト教的人間論のほかにヨーロッパは石の文化なので、アルキメデスの墓などが残存していますよね。石だと隠蔽しようとしてもしきれないわけです。ローマの暴君の痕跡も当たり前に遺構として残っている。隠蔽しないというより、物があるので隠蔽できない文化なんです。一方、日本は木の文化のため、隠蔽しやすいんですよ。我が国の精神構造として「なかったことにしてしまう」「まっさらにしてしまう」ということが多すぎた。
近代に対する正しい態度としては、構造化して責任の所在を明らかにした上で「土下座しろ」とか言わないような社会に変えていく必要がありますね。責任の在り処を見て、AさんやBさんといった個人の責任にするのではなく、どの部署の人に決定権があってなぜ判断を誤ったのかを考えるべきでしょう。まさに法的思考力で、抽象化したシステムの中でどこに不備があるのか考える。その意味では私も法律学や経済学をしていてよかったです。抽象的な自然人を想定して社会システムを見ることを観光の形で実現をすると、ダークツーリズムになってくる。Aさん、Bさんは判例の話になるが、ダークツーリズムとして教訓をみるのはモデル化された思考の部分ですね。
――つづく
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