2016年にIBMが世界で初めて量子コンピューターをクラウドに公開して10年。基礎研究の領域に留まると見られていた量子技術は、ビジネスと科学にブレイクスルーをもたらす実用フェーズへ突入した。「実用的量子優位性」の達成、AIとの融合──IBMの年次カンファレンス「Think 2026」から見えてきた、企業が直面する次なるパラダイムシフトを解説する。
クラウドでの公開から10年 実用フェーズに移行する量子技術
2016年5月4日、IBMは世界で初めて量子コンピューターをクラウド上に公開した。当時、わずか5量子ビットの実験的なデバイスに過ぎなかったシステムに、世界中の誰もがアクセスできるようにしたこの決断は、量子情報科学における新たな一歩であった。それから10年が経過した現在、量子ハードウェアとソフトウェアは大きく進化している。
ハードウェアでは、156量子ビットを誇る「IBM Quantum Heron」プロセッサへと進化を遂げ、エラー率も初期デバイスから10分の1以下にまで低減している。また、回路(量子ゲート)を一つひとつ手作業で組み立てる時代は終わり、オープンソースのSDKである「Qiskit」を通じて、数行のコードで高度な量子アルゴリズムを記述できるほどソフトウェアスタックも成熟した。現在、Qiskitのコントリビューターの75%はIBM社外の開発者であり、いまやオープンソースコミュニティとして量子エコシステムの進化をリードする存在として立ち位置を確立している。
このように実験の域を出なかった量子コンピューティングのエコシステムは、産業界として課題解決に挑む、実用的なフェーズへと移行しているようだ。IBMの年次カンファレンス「Think 2026」のクロージングセッションでは、IBMフェローでありIBM Researchのディレクターを務めるジェイ・ガンベッタ氏は、「真に役立つ量子コンピューティングは、既に現実のものだ」と強調した。
過去70年にわたる古典的コンピューターの進化を以てしても、自然界の分子の振る舞いや複雑な適応システムなど、私たちが解き明かせない物理世界の根本的な問題が多数存在している。たとえば、古典的コンピューターではシュレディンガー方程式を近似的に解くことしかできず、創薬やエネルギー問題の解決における大きな足かせとなっていた。しかし、量子力学に基づく量子コンピューターは、自然そのものを正確に計算する可能性を有しており、これまでの停滞を打ち破る可能性を秘めている。
ガンベッタ氏は、理論物理学者のリチャード・ファインマンが思い描いた「量子コンピューターが自然をモデル化するだけでなく、まったく新しい形態の物質の創造を助ける世界」が現実のものになりつつあるとする。2026年3月には、これまで存在しなかった「ハーフ・メビウス」と呼ばれる形状の分子(半メビウス型の電子トポロジー)が作り出され、量子コンピューターを用いてその電子構造が解読された。72量子ビットと100量子ビットの量子システムで実行されたシミュレーションの結果は、実際の電子雲の走査型トンネル顕微鏡(STM)画像と完全に一致している。つまり、現実の精密な観測データと計算結果が合致したということだ。今後、量子コンピューティングの高い計算力を用いることで、これまで存在しなかった新素材の開発など、新たなビジネスを生み出すことにつながっていくだろう。先述した通り、まさに量子コンピューティングは実用フェーズに踏み出したといえる。
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岡本 拓也(編集部)(オカモト タクヤ)
1993年福岡県生まれ。京都外国語大学イタリア語学科卒業。ニュースサイトの編集、システム開発、ライターなどを経験し、2020年株式会社翔泳社に入社。ITリーダー向け専門メディア『EnterpriseZine』の編集・企画・運営に携わる。2023年4月、EnterpriseZine編集長就任。
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