ソースコードを記録したテープを持ってバスに乗った新人時代
社会人人生は思わぬ方向転換から始まった。
1983年4月に入社。土田さんは当時「花形」とされた大型コンピュータのハードウェア開発を希望していた。
「当時の注目分野だからやりたかった。かつての日立には広い部屋にコンピュータがずらっと並んでいました。いまのスパコンみたいにね。先生の推薦もあり、世界一のコンピュータを作りたくて日立を選びました」
意気揚々と臨んでいたにもかかわらず、配属はシステム開発研究所。まさか第3希望が割り当てられるとは思わなかった。あこがれの“モノづくり”が遠ざかっていく気がしてぼうぜんとした。ハードウェアではなくソフトウェアだと将来のイメージすらわかず、慌てて恩師に「週末、行ってもいいですか?」と電話した。そこで恩師は「これからはデータベースだよ」と土田さんを諭した。これで覚悟が決まった。
上司から希望する研究テーマを問われ、土田さんは堂々と「RDB」と宣言した。まだ皆が見向きもしなかった分野であることもあり、驚かれた。
仕事は資料集めから始まった。日立のデータベース製品で未出荷のものがあるという。こう指示された。
「ソースコードを取ってきて」
空の磁気テープを持参して電車に乗り、バスに乗り継ぎ、日立のメインフレームコンピュータがあるソフトウェア工場まで行った。到着したらJCLの実行。まずはテープのマウントからである。ようやく出てきたソースコードを記録したテープをかばんにつめ、来た道を戻った。
今ならソースコードなどサイトからダウンロードすればできるのに、恐ろしくなるほどの手間である。
初めはデータベース製品のプロトタイプ開発や性能評価から携わったものの、ハードウェア開発の夢は捨てたわけではなかった。あるとき日立が大手通信事業者のシステムを受注した。膨大なデータから素早く検索することが求められるシステムで、ソフトウェアだけではなく、ハードウェアの能力も求められる案件だった。「チャンス到来!」と見た土田さんはすかさず立候補した。ここでマイクロプログラムなどハードウェア設計に関わることができた。
今で言う「アプライアンス」に近い。性能を追求するならソフトウェアとハードウェアが最高の性能を出すような組み合わせが必要になってくる。しかし「ハードウェアも込みで導入してしまうと、システムが陳腐化してしまうのが早い」と土田さんは苦い思いを振り返る。
「システムの流行には揺り返しがあると言われているでしょう?技術というのはらせん階段のようにスパイラルに登っています。技術者はスパイラルを横から見ているから上昇しているのが見えるけれど、お客さまやユーザーはスパイラルを真上から見ている。だから同じ円をなぞっているように見えるんです。『また同じところに戻ってきたね』と」
1990年代初め、ダウンサイジングやオープンシステムの流れが到来し、大規模並列データベースアーキテクチャの開発に関わるようになった。土田さんの小史で見ると、「モノづくり」という大きな柱に「アーキテクチャ設計」が加わったときだった。
当時日立はすでに海外のデータベース製品を扱っており、新規の自社データベース製品開発に着手するかどうかは社内で大議論となった。そこで1年半の先行(土田さんは「潜行」とも言う)研究で得た成果を発表し、製品化に持ち込んだ。
社内で承認してもらうため、規模と世界一にこだわった。特徴は4096ものコアを並列計算機上で稼働できるデータベースアーキテクチャ。この4096コアは当時主流の海外製品をはるかに上回る数字だった。並列計算機そのものは製品化されなかったが、このデータベースアーキテクチャは後に日立のリレーショナルデータベース製品「HiRDB」へと引き継がれた。