データ基盤の構築だけではないデジタル基盤の強化
そして、3つめの基本戦略が「デジタル基盤の強化」であるが、これまで見てきた通り、中外製薬が扱うデータは単に量が多いだけでなく、取り扱いに慎重さが求められる。たとえば、医薬品開発では究極の個人情報とも言うべきゲノムデータはもとより、先述のリアルワールドデータの活用を考えていかなくてはならない。加えて、中外製薬の社内だけではなく、社外の医療機関や学術機関とのやりとりも発生する。つまり、このようなセンシティブなデータを安全に利用、移動、保管できることがデータ基盤の要件となるわけだ。
中外製薬が構築した「Chugai Scientific Infrastructure(CSI)」は、全社でのデータ活用促進を目的とした、慎重な取り扱いが求められるヒト由来のデータなどを含め、安全な利用、移動、保管することが可能なクラウド基盤だという。従来のオンプレミス環境では、コストやスケジュールの問題に悩まされていたが、クラウドを採用して作業を共通化・自動化したことで、環境構築コストを従来比10分の1に削減できた。研究者にとってうれしいのは、何かを解析したいと思ったら、すぐにそれが実践できる環境にアクセスできるようになったことだ。
また、アイデア創出から技術検証、本番開発の意思決定までのプロセスを包括的に支援する「Digital Innovation Lab」や、人財育成もデジタル基盤強化の戦略の一環だという。このラボではDXに関係する優れたアイデアを募集しており、参加資格は個人・グループを問わず社外の企業とも積極的に連携している。アイデアを思い付いたら、それを具体化するためのPoC(Proof of Concept)の計画書を出し、良いものに関してはラボがPoCの費用を出す。年間約150件の応募があり、この内30件程度をPoCに移行した実績がある。
さらに、人財育成に関しては、2021年4月にデジタル人財の体系的な育成を目的として「Chugai Digital Academy(CDA)」を立ち上げた。当面は社内の人財育成を強化することに注力するが、将来はCDAで提供する教育プログラムを社外に展開することも視野に入れる。特に強化を急ぐのが「データサイエンティスト」と「デジタルプロジェクトリーダー」と呼ばれる2つの職種である。2021年は合計3回のプログラムを実施し、全部門から約100人が参加した。
ファーストペンギンになれるか?
ここまでを振り返り、志済氏は「中外製薬のDXはいかに全社ごと化するかが重要でした」と語る。先に挙げた4つの要素の中でも、特に大きな影響を与えたものが「経営トップのコミットメント」だったと打ち明ける。トップの継続的な支援なくしてDXを進めることは難しいが、一方で実際のプロジェクトは、粛々とではなく「熱量×スピード」の掛け算で一気に進めていくことが望ましいとも話す。「うちの会社って変わったね」「デジタルを真剣にやり始めたね」など、社内の空気の変化を感じられるようになれば、徐々に好循環が生まれる。
また、他の企業の担当者から「様々な部門とのすり合わせが進まない」との声を聞く機会があるという。これに対しても「個人的に思うのは、すり合わせはいつまでたっても収束しないということです。その時間があったら、手を上げた人や部署とやってみる。ファーストペンギンになることが必要だと思います」と、志済氏はアドバイスをした。志済氏がリーダーを務めるデジタル戦略推進部の場合、初期の推進メンバーは好奇心旺盛な人、適応力が高い人、決断が早い人が中心であった。周囲にそんな人たちがいれば、仲間になってもらう。それができれば、動きの鈍いDXの歯車も回り始めるに違いない。