回路設計のハードウェアエンジニアから、ソフトウェア製品のSEへ
河内山氏は幼少期から日本でインターナショナルスクールに通い、カナダへの留学経験などもあったことから、米国の大学への進学は自然な流れだった。高校生の頃、留学中にPCに触れて電子工作などを行い、ものづくりの楽しさを覚えたことが転機となり、大学では電気電子工学を専攻する。
大学卒業後は米国での就職も考えたが、当時はリーマンショック後で米国は不景気の真っ只中。日本での就職先として選んだのは日立製作所だった。これまでの経験を活かした回路設計の仕事ができることに加えて、「当時から日立はグローバルビジネスを掲げていたので、『日本で作ったものを世界に発信したい』という思いを実現できると考えて」と河内山氏は言う。
入社後に配属されたのは戸塚事業所。キャリア向けゲートウェイ製品の回路設計が初仕事となる。回路設計だけでなく、製品化に至るまで一連の業務に携わり、「製品の検討から設計、試作機の作成……現場の担当者たちと一緒に製品を納入するところまでやりましたね」と河内山氏は振り返る。
その後、同様にゲートウェイ製品の1つである、エレベーターの非常通信で利用する制御端末の設計に携わることに。「エレベーターの試作機に乗り、非常ボタンを押す試験をひたすらやるような経験もしました」と笑みを浮かべる。回路設計のエンジニアとしてキャリアをスタートした河内山氏だが、そこに特化することなくハードウェア設計全体、“1つの製品を企画し、作り上げる”ところまで携われたことが貴重な経験だったと話す。
その後、大きな転機が訪れたのが2016年。日立が「Lumada」に取り組みはじめたタイミングで、SEとしてのオファーが寄せられた。IoTやM2M(Machine-to-Machine)のゲートウェイ設計に携わってきた経験・知識を生かし、IoTプラットフォームを立ち上げてほしいというもので、「Lumadaは今後、海外展開も見据えられていたので興味を持ちました」と河内山氏。とはいえ、回路設計とSEでは大きなギャップを感じたとも振り返る。
「まずは、考え方から変えなければなりませんでした。SEはものづくりというより、作ったものをいかに“ソリューションとして見せられるか”、顧客課題が前提にあり、うまく解決していくことが求められます。一方で、回路設計はある意味どんどん設計すれば良かったという世界、SEでは外部とのコミュニケーションも重要視されました。自身の中で、“仕事観”を変えることには大きなものがありました」(河内山氏)
実際にSEへと転身して担当したのが「Hitachi Data Hub」。これは「データを収集するプラットフォームで、工場などにあるOTのセンサーなどから抽出したデータをいかに効率的に収集するか。さらには、集めたデータをアプリケーション側が使いやすいように加工する機能などを持たせたものでした」と説明する。未経験のSEとして、IoTプラットフォームの計画書や提案書をゼロから作るところからのスタートだった。
チームメンバーにはSEの経験者が多く、ハードウェアエンジニアからSEへのマインドチェンジなどは、業務を通して周囲のメンバーから学ぶこととなる。また、プラットフォームの立ち上げということもあり、全体を取りまとめたSIとしての提案も必要とされた。なお、無事にバージョン1.0をリリースして以降は徐々に顧客が増え、今では数十ライセンスが産業向けを中心に、幅広い分野のIoTプラットフォームとして利用されるまでに至っている。
もう1つ、河内山氏に期待されていたのが“IoTプラットフォームビジネスの海外展開”だ。その起点となるのが日立の米国子会社「Hitachi Vantara」。同社は日立グループの一員ではあるが独立しており、目標や方針は本社とは異なる。当然ながら作業スピードや顧客アプローチにも大きな差異があり、Hitachi Vantaraで展開していたIoTソリューションを軸に協業を深めたかったが、文化の違いや開発手法など大きなギャップが立ちはだかっていた。
そうした状況を打破するため河内山氏は何度も米国に足を運び、Vantaraの担当者と直接対話をしながらの船出に。当然ながら苦労も多かったが、入社当時に望んでいた“海外に向けて日本から発信する”という仕事に携われたことにやりがいを感じたと河内山氏は語る。