二十歳でプリンストンの大学院に進んだナッシュの論文テーマのひとつが連載第2回目で取り上げた「ノイマンのゲームの理論」の展開です。これはのちに「ナッシュ均衡」と呼ばれるようになります。
ノイマンも先人の試みにさらなる理論的意味づけを与え、理論体系を構築してゲームの理論を著しました。1950年ごろ。MANIACが動き出した、そんな時代。ナッシュもプリンストンにいたのです。
コッド博士のリレーショナル・モデル論の先人
コッドの論文は1970年に出されたものですが、その2年前にデビッド・チャイルズという、無名の技術者がFeasibility of A Set-Theoretic Data Structureというプレゼンテーションをしています。コッド論文は、ここの集合論を展開したものです。
デビッド・チャイルズ
数学者でもなく、研究者でもないく、なんちゃってプログラマーだと自ら語るチャイルズが、どうゆうわけかARPA(のちのDARPA)の CONCOMプロジェクトに参加(1965)します。
サウンドデータを「どうやって表現したら良いのだろうか?」という素朴な取り組みからリレーショナル・モデルの構想を得ました。起点となるデータ(Origin)と次階層へのポインターをリレーションシップで表現したのです。すべてのデータにはそれぞれに関係性があり、それを数学的に表記すれば、キャプチャしたデータそのものを表現できる。そしてトランザクションはSet Operationで実装できる…。
彼にとっての「リレーショナル」という定義はグルーピング(のちのTable)とテーブル間のポインター(のちのPrimary, Foreign)の概念です。ですから、オリジナルのRDBの定義は「すべてのデータには関係性があり、それを定義したものでアクセスする」というものです。そして、そのレコード配列やインデックスの概念にn-tupleを単語として用いました。
CONCOMPが終了するとチャイルズはSet Theoretic Information Systemsという会社を興しデータベースマシンまでも作りましたが、今ではあまり有名ではありません。彼のRDBであるSTDS(Set-Theoretic Data Structure)は影を潜め、彼のアイデアから始まったリレーショナル・モデルがパブリックドメインとしてコッド・オリジナルで広まります。
彼はTupleへのアクセスをSet方式(集合論)で行うことにこだわり続けました。コッドも同様の方式を考えていたみたいです。コッドの考えていたRENDEZVOUS(ランデブー)という言語は今ではよく分かりませんが、その後に出てくるSQLをコッドは批判していますので大事なところで、理想とのギャップに心乱れたのでしょう。でも実際は、その後のリレーショナル・データベースが展開される上でSQLが最も貢献したのですから皮肉な話です。