Jim Starkey - MVCCの父
70年代中期にDECに引き抜かれたJimにとって、それはリレーショナル・データベースのコードを書くチャンスだった。しかし、商用システムにとってはネットワーク・データベースのみがサポートされると広く信じられていた。この誤解を振り払うのに4年間を費やしている間に、JimはDatartrieveをデザインしコードを書いた。それは、1テーブル1ファイル構成のDB(フラット・ファイル・データベース)とDMBS-32上で動作するリレーショナル・クエリー言語だった。Datatrieveのユーザーはよりフレキシブルで、同時並行動作の制御に優れ、"全てが完全に実行されるか、処理が中断された場合、元の状態に戻る"という原子性のあるトランザクションを兼ね備えたシステムを求めていた。
InterBaseの始まり
DECが最終的にリレーショナル・テクノロジーを取り入れる決定をした時に、JimはまだDatatrieveに取組んでいたので、別のグループが後にRdbになるシステムをデザインし始めた。彼らは、「リレーショナル」と「データベース」の意味について論じ合った。彼らは、一貫性の度合い、ロッキングの意味、シャドーイングのテクニックに関してすばらしい議論を持ち、文献を調査した。しかし、彼らはコードを一つも書き始めなかった。
Jim Starkeyというロックな男
私は1984年のレイバー・デイ(訳注:9月の第一月曜日)の直後の週末にその会社を設立した。私はほぼ10年間DECに在籍していて、よくしてもらっていたが、私の方はそれほど良くは思っていなかった。私は、自分が不幸の星の下に生まれたんだったら、他の誰かのせいじゃあなく、自分自身の失敗によって苦労する方がましだと思っていた私達の会社は当初、ちょうど私がマサチューセッツ州ゴートンに住んでいたので、ゴートン・データベース・システムと名乗った。ユビキタスな「gds」というのは、そこからきているわけだ。私達がその名前で会社を始めたのは別に何かの意図があったというわけじゃあない。他に三つほどカッコいい名前を思いついたんだが、商標検索で引っかかってしまったし、調査会社にそれ以上代金を支払うのが嫌になってしまったので、そんな名前になったというわけだ。
私は一人ぼっちで仕事を始めたが、すぐにDon DePalmaが合流してきた。それからシャム猫が2匹、カサンドラとヘクターもやってきた。DonはずっとDECでいっしょにやってきたダチだったが、あろうことか猫が大っ嫌いだった。私はコードを書きつづけ、Donはドキュメントを書いた。
ヤツは猫をなんとかバルコニーへ追い出そうとしていたが、そいつは無駄に終わった。
私達の最初の大きな契約がアポロ社との間で結ばれた。当時アポロ社は独自ブランドの製品をほしがっていて、それが徐々に我々の耳に入るようになり、そしてデカイ小切手を送ってよこした。
アポロ社は、私が裏切らないように、カミさん(Ann Harrison)を人質にとった。私は、作業開始後約一年後に最初のベータバージョン(まあまあの出来。Virginiaと呼ばれる)を引き渡した。
社外ベータバージョンがうまくいった後で、アポロ社は内紛に喘いでいた。組織は再編され、新しい社長が決まり、事業計画は一新された。そして結局、独自ブランドのソフトウエア事業からは手を引いてしまった。我々は指を加えて見ているしかなかった。
Annはアポロ社のDave Rootというヤツと仕事をしていた。内紛の後で、彼は自分が窓際に追いやられているのを知って、ゴートン・データベース・システムへと亡命してきた。アポロ社の連中が善良な人々になったと言うわけじゃあなかったが、とにかく連中はAnnを人質の身分から第三者を介して解放してきた。Annもすぐに合流したのは言うまでも無い。Don、Ann、Dave、猫のヘクターとカサンドラ、それに私はリーディ・メドウ・リサーチ・センターとして知られるようになるモノを作りあげた。我々は家を追い出されてしまったので、マサチューセッツ州ティンズボローのピザ屋の上に事務所を借りて移転した。ピザはマズかったが、とにかく我々は家を出たわけだ。
我々は次の手を打った。別のDECのダチをだまくらかして合流させた。キャサリン・サリバンはサポートの親玉として、ラリー・ワインシュザック(ラリー・ウィグル)を営業部長として、さらにマギー・ヒンクルをその他すべてのことにあたらせた。我々は7名になった。次に、社名を変更することになった。我々は、自分達のいいと思う社名をリストアップした、aから一つ、bから一つ、そしてInterBaseに行き着いた。DonとAnnは私の反対を押し切って、社名はInterbaseで製品はInterBaseであるというあほな図式を作り上げた。ようやく我々は、エスター・ダイソン社というあてにならない投資家を得ることになった。仲良く出来たと言うことはアドバンテージだったが、たいして金にはならなかった。我々はさらにパートナーとなってくれる投資家を探し回った。我々はコグノス社を見つけ、同時期にアシュトン・テイト社が我々を見つけた。カリフォルニアの×××がまぶしかったが、我々はアシュトン・テイトとやっていくことにした。我々はすぐにも審査を通ることを期待していた。我々は、かの奇妙な土地、カリフォルニアで、この審査を通るのに2年もかかるとは知る由も無かった。
アシュトン・テイト社は1991年に、企業買収の権利を行使した。アシュトン・テイトはInterbase社をそのままそこに残して、新しい社長を据えることを計画した。(私はアシュトン・テイト社の社長との哲学上の相違によって、舞台を降りた。あるいは、家族と一緒に過ごす時間を増やしたかったからなのか?あるいは、別のことに興味が移ったからなのか?)いずれの場合にしろ、私のとった最後の事務手続きは、離脱同意書の両面にサインをすることだった。この買収のちょっと後に、ボーランド社がアシュトン・テイト社を、つまりそれゆえInterbaseをも買収した。しかし、そんなことではもう何も変わらなかった。
―スターキーの回想から抜粋
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