ビル・ゲイツやラリー・エリソンが会社を起こした頃、70年台後半はMade in Japanの工業製品が対米貿易摩擦を生む一方でIBMがコンピュータ帝国として君臨していました。
その帝国に立ち向かったちっぽけな会社は何をしたのでしょう。というのが今回のテーマです。僕の冴えないプログラマー生活が始まった80年代の日本は、世界トップクラスのコンピュータ・マーケットとして彼らを惹きつけたのですが、現場にいたはずの僕は、満員電車とタイムカード、それに締めっぱなしのネクタイで、今では懐かしい単語となった「生活残業」に勤しんでいただけでした。
IBMが育てた
System RプロジェクトのコンパチブルDBを作ろうとしたのがエリソン率いるOracle社です。エリソンはメッセージコードも統一しようとしたそうです。多くのドキュメントを公表しているSystem Rプロジェクトですが、さすがにメッセージ一覧はコンフィデンシャルとして訪ねてきたエリソンには渡しませんでした。System Rが特許申請していたらどうなっていたか?という面白い後日談があります。しかし1970年代頃から、ENIAC裁判の影響もあったのでしょうかコンピュータ周辺の特許は明確に認められないようになりました。それなら、極秘プロジェクトでやればよかったのかも知れません。しかし、研究者気質のメンバーには秘密主義はありえなかったようです。IBMにはノイマンが率いたEDVACチームの気質にも通じるものがまだ息づいていたのでしょう。全てを公表して共同研究を好んだEDVACチームの多くは、立役者ハーマン・ゴールドスタイン(第2回)を筆頭にIBMに流れて行ったのです。
それと同時期にRDBを模索していたSystem Rのライバル:ストーンブレーカも同じように、ビジネスというよりは研究テーマ的にオープンにしています。ストーンブレーカは後にINGRESの顔になりましたが、ASK Corporationへの買収を機にPost Ingresとして完全オープンのPostgresを率いました。また、その派生でInfomixやSybase、そしてNonStop SQLが生まれたのです。
ちなみに、InfomixはのちにIBMに吸収され、SybaseはMicrosoftと提携しSybase SQLServer(Adaptive Server Enterprise)を1992年に出しています。これがのちにMS SQLServerとなります。もう一つ、ちなみに…Ingresが先にCost Base Optimizerを実装していたのですが、求心力を失ったIngresチームから人が流れ、OracleのOptimizerが大きく変わりました。
怒ったASKはOracleの引き抜き工作を101号線にクレーム広告として出したのですが、その後どうなったかは不明です。