はたしてシンギュラリティはくるのだろうか?
今日のAIブームの口火を切ったのは、2016年3月にグーグルのAlphaGOが、韓国の絶対王者であった囲碁チャンピオン、イ・セドルを4勝1敗で破ったときではないでしょうか。これはグーグルが買収したディープマインド社の、「ディープラーニング(深層学習)」と呼ばれるAI技術が人間を圧倒した「歴史的大事件」であったように思います。1997年にIBMのディープ・ブルーが、チェスの世界チャンピオン、ガルリ・カスパロを破った試合も印象に深く残っていますが、囲碁はチェスと違い、その複雑さが桁違いですから、まさか囲碁のチャンピオンがコンピュータに敗れるとは誰もが予想だにしなかったことでした。
この「歴史的大事件」の印象があまりにもショッキングでしたから、世の中の関心が「AIが人間の知性を超える」といった「シンギュラリティ(技術的特異点)」に向いたり、AIが仕事を奪うといった不安につながった側面があると思われます。果てはレプリカントのように、AIが人間に反乱を起こすという可能性すら語られるようになりました。
シンギュラリティといえば、真っ先に名前があがるのがレイ・カーツワイルでしょう。2012年にGoogleの技術役員に就いたカーツワイルは、それに先立つ2005年に書いた『The Singularity Is Near : When Humans Transcend Biology』で「シンギュラリティ」を世界に広め、一躍、時の人となりました。カーツワイルは、シンギュラリティが迫っている根拠を、半導体の集積密度が18か月で2倍となるムーアの法則のように、技術的進歩が指数関数的に成長するからであるとしています。カーツワイルによれば、その時期を2045年とし、AIが人類の知性を超えるとしているのです。
筆者もカーツワイルの説にずいぶんと考え込んだひとりです。しかしどうしても筆者にはわからない謎がありました。はたして「人類の知性を超える」の「人類の知性」とは何だろうか。そもそも「人類の知性」がなにかわかっていないのに、なにをもって「人類の知性を超える」と言えるのだろうかと。しかもカーツワイルは、2045年にシンギュラリティが起きることの根拠を、「(技術的進歩の指数関数的な成長により)1000ドルのコンピュータが全ての人間を合わせたより知的になる時期」としか言っていないのです。筆者はシンギュラリティの定義を「AIが人間の知性を超える地点」とする定義自体に無理があるのではないかと考えるようになりました。なぜならば「人類の知性」とはなんだろうか。「考える」とはなんだろうか。「脳の仕組み」はどうなっているのか。「意識や無意識」とはなんだろうか。これらすべてが解明されているとはいえない状況では、カーツワイルの説に納得できなかったからです。
しかし、筆者にとって、すんなり腹落ちする答がやってきました。読まれた方が多くいらっしゃると思いますが、新井紀子さんが書かれた『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』は、このような難しい「AI」にまつわる問題を、平たい言葉で解明した書籍です。一流の科学者でいらっしゃる証だと思うのですが、これだけ難しい問題を、やさしく解き明かしてくれた本書は、まさにAI時代の必読書であると感じました。
この本が解き明かした謎のひとつは、シンギュラリティはやってこないとの答です。そもそも本書では、シンギュラリティを「AIが人間の知性を超える地点」とする曖昧な定義をしていません。本書におけるシンギュラリティとは、「AIが、人間の力を借りずに、自律的に、自分自身よりも能力の高いAIをつくりだすようになった地点」です。つまりうまく定義できない「人間の知性」と比較していません。そのうえでシンギュラリティはこないとしているのです。
その理由は簡単です。コンピュータを「電子計算機」と訳すように、コンピュータの頭脳の働きの基本は「計算」です。その動作原理は電卓と同じで四則演算です。さらにその頭脳の働きを分解すると、これがデジタルコンピュータと言われるゆえんですが、「0か1か」、「onかoffか」、「true(真)かfalse(偽)か」の、二者択一の判定をする仕組みを持っています。
ただしコンピュータが電卓と違うのは、さまざまなソフトウェアとしてプログラムをその頭脳に読み取らせて実行させる機能がある点です。またプログラムを自由に入れ替える機能もあります。そのプログラムには、プログラミング言語を使って、アルゴリズムが書かれています。アルゴリズムとは、ある問題を解くための手順を定式化したものです。
つまりコンピュータのプログラムには、「数式」と「YESかNOかの二者択一の条件判定のためのIF文と呼ばれる判定文」で書かれたアルゴリズムが記述されています。だからコンピュータ・プログラムには、「AならばB、BならばCであれば、AならばCである」と論理的(演繹的)な記述、数式の組み合わせによる統計的な数式、それに確率的な数式を書くことができます。
だからシンギュラリティを起こすためには、つまりAIが自分自身よりも能力の高いAIをつくりだすためには、ふたつの条件が必要です。ひとつめは、知能や知性といわれるものの仕組みがどうなっているかを明らかにできなければなりません。ふたつめに、その仕組みを、判定文による論理と、数式からの統計、確率の計算にアルゴリズムとしてプログラミングできなければなりません。しかし、このいずれも現状では無理と判断せざるをえません。いまのAI技術応用の中心的な役割を果たしているディープラーニングにしても、それはソフトウェア・プログラムであって、そのアルゴリズムは、統計解析の計算をしているに過ぎないのです。
居ないと証明されていないからといって土星人が居る可能性に賭けるのか?
ただしカーツワイルの主張は、もうひとつの可能性に依拠しています。それは「1000ドルのコンピュータが全ての人間を合わせたより知的になる時期」と言うように、いまよりもコンピュータの計算スピードが1万倍、100万倍と早くなっていったときに、工学者の努力がうまく作用して、たまたまにしろなんにしろ、シンギュラリティを起こしてしまうかもしれない可能性です。しかし新井紀子さんは、これについても内閣府の諮問会議「2030年 展望と改革タスクフォース」(2016年10月)で興味深い発言をしておられます。
シンギュラリティが来るかもしれないとの意見は、現状では「土星に生命がいるかもしれない」ということとあまり変わらない。土星に生命がいないと証明されたわけではないように、シンギュラリティが来ないと今証明できるわけではない。しかし、土星に土星人が居ないと証明されていないからといって、土星人が居る可能性に賭けるのはいかがなものか(表現は筆者が適宜、編集)。
筆者はなんて秀逸な例えをされるのだろうと、ひどく感心した記憶があります。