とにかく謝って謝罪文は正しいのか?
私は現在、政府において様々なシステム開発をユーザ側の人間として見る立場なのですが、残念なことに政府の開発においても、大小様々なトラブルや不具合が後を絶ちません。
原因は様々で、単なる作業ミスや設計における考慮ミス、技術の不足、見積もりの誤りなどベンダ側に責任があることもあれば、要件定義の不備や各種情報提供の遅れといったユーザ側の責任と考えられることも少なくありません。
この連載で取り上げているIT紛争も、多くはそうしたことで起きます。裁判に至るまで両者の亀裂が深まった際に、「申し訳ありません」と頭を下げるのは、多くの場合お金を貰うベンダのほうが多いようです。本当の原因はともかく、とにもかくにも“お客様”との関係を維持するため、謝ってしまったほうが事態は早く済むし得策だ、そんな心理が働くのかもしれません。
しかし実際のところ、そういった経緯で出される謝罪文に、どれだけの意味があるのでしょうか。本当はユーザのほうが悪いのかもしれないのに、きちんと原因分析をせずにとりあえず作成した謝罪文は、その後の解決になんら役立たないことが多いものです。
誰が何をしたから(しなかったから)トラブルが発生した。そこを掘り下げずにプロジェクトを続けても問題は解決しません。それどころか、その後プロジェクトが破綻して法的紛争になったとき、ユーザはベンダの謝罪文を証拠として示し、「彼らは非を認めている」と自らの正当性を主張するケースがあります。
こうした対応を、私自身も調停や裁判で何度も見てきました。そうしたとき、謝罪文を一つの有効な材料と考えて、ベンダの非を認める判決を出すのか、それとも、分析のない謝罪など意味がないと考えるのか。今回はそんな事件を取り上げたいと思います。まずは事件の概要からお話ししましょう。
(東京高等裁判所 令和2年1月16日判決より)
あるユーザが自社の新基幹システムの開発をITベンダ委託した。しかし、プロジェクトは、ユーザによるシステムの構想や画面構想等のとりまとめが遅れたことにより、ベンダ側の作業が混乱し、かつベンダがユーザの一部作業を手伝うなどせざるを得なかったことから、本来ベンダが行うべき作業も遅延した。その後、プロジェクトは回復する兆しを見せず、納期を経過しても完成する見込みがないと判断したユーザは、かったため履行遅滞を理由に請負契約を解除し,既払い金約7,000万円の返還とともに,期限までに完成しなかったために生じた損害約21.5億円の損害賠償を求めた。