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DX推進に「待ったなし」脱ハンコ・デジタル化で実現する業務改革最新事情

京都大学公共政策大学院 岩下直行教授×アドビ 神谷バイスプレジデント対談

 菅内閣が発足した2020年9月、河野太郎規制改革担当大臣の発言が大きく取り上げられた。それは「正当な理由がない行政手続きについては『ハンコをやめろ』ということを押し通そうと思う」というもの。行政のむだ撲滅を掲げてきた河野大臣の発言は日本におけるデジタル化を後押ししたのだろうか。今回は京都大学公共政策大学院教授であり、規制改革推進会議委員も務める岩下直行氏とアドビ デジタルメディア事業統括本部 統括本部長 専務執行役員 神谷知信氏に脱ハンコ、デジタル化推進の最新状況と今後の展望について伺った。モデレーターは本誌統括編集長の押久保剛が務めた。

コロナ禍で大きく動き出した脱ハンコの動き

押久保剛(以下、押久保):コロナ禍でリモートワークが推奨され、出社人数の削減などが要請されている中、ハンコを押すためだけに出社するという人がいることも話題になっていました。だからこそ河野大臣の「ハンコをやめろ」はインパクトがありましたよね。

京都大学公共政策大学院教授/規制改革推進会議委員 岩下直之氏 アドビ デジタルメディア事業統括本部 統括本部長 専務執行役員 神谷知信氏
京都大学公共政策大学院教授/規制改革推進会議委員 岩下直行氏
アドビ株式会社 デジタルメディア事業統括本部 バイスプレジデント 神谷知信氏

岩下直行氏(以下、岩下氏):コロナ禍でハンコの話は切実になりました。河野大臣の鶴の一声で動き出したように見えるかもしれませんが、その前から脱ハンコの必要性については政府でも課題となっていたんですね。私は政府の規制改革推進会議でハンコ問題に取り組んできましたが、河野大臣の発言が後押しとなり、ようやく認印廃止の動きが加速化してきた印象を受けます。

神谷知信氏(以下、神谷氏):コロナの影響というと、私が所属するアドビのような民間企業も同様です。弊社は本社がアメリカにあり、売り上げの大半もヨーロッパとアメリカなのでコロナの影響を大きく受けました。

 日本でもいち早く100%テレワークへ移行しています。日本と異なり、アメリカやヨーロッパでは4、5年前から紙が必要な業務はだいぶなくなってきていました。そのころから日本でも電子契約サービスは提供していましたが、コロナ禍によって急激に引き合い増の印象です。関連のバーチャルセミナーも毎回満席ですし、期待値が高いと日々感じています。

押久保:日本において、電子契約サービスに関してはあったらいいな、やったほうがいいなと思われていたかとは思いますが、コロナ禍前までは、まだ必然性が感じられていなかったということでしょうか。

神谷氏:そうですね。今回二度目の緊急事態宣言を受けて、その必然性も上がっているように感じます。

岩下氏:元々政府の行政実務は紙ベースですし、裁判所や国会だとその書類も縦書きで漢数字が使用されていたりと、標準化したりIT化しにくいものが多いです。今でもそのままそれを印刷して分厚い資料を風呂敷に包んで運ぶ、なんてことが日常にあります。民間では、もっと合理化されていますよね。ハンコが必要な書類も多いでしょうが、行政ほどではないでしょう。

 なぜそうかというと、これはITリテラシーの問題があります。一般的に考えると、デジタル化していない人がデジタル化に対応することは難しくても、デジタル化できている人が紙に対応することはできてしまう。そのため紙に合わせてしまうという側面があるんですね。

 民間に比べると行政は変わりにくいのですが、このコロナ禍では変化せざるを得ないという場面が多くありました。わかりやすい例が10万円の定額給付金です。色々問題もありましたが、迅速に給付を行うため、マイナンバーカードも活用し、従来よりも迅速に動くことができたと思われるのではないでしょうか? でもこれは現状が異例だからという側面が大きいです。脱ハンコや電子化も異例な状況なので動くことができるけど、通常時には戻ってしまうかもしれない。それでも大きな第一歩ですよね。

押久保:国民からみると、なぜこれほど進まないのだろう? と思えてしまう部分もありましたが、要因はどこにあるのでしょうか。

岩下氏:法律的にハンコを押さなければいけないものは、実は少ないのです。ただ、法律や条例などには「書式」というものがあります。皆さんも「このように記載してください」と書式を見たことがあるのでは? その書式を見ると「印」とある。無視をすればいいとも思いますが、長年働いている方にとっては、やはり「印」とあれば、ハンコを押さなくてはというマインドになってしまうんですよね。これは官に限らず、民でも同じではないでしょうか?

電子化は仕組みだけではなく、関わる人たちのマインドを変える必要がある

押久保:私たち日本人は、ハンコを押すのが当たり前になりすぎて、切り替えられない——。

岩下氏:そうですね。その結果、やっぱり紙だよね、となってしまうとまた元に戻ってしまう。それはもったいないです。

神谷氏:弊社では昨年(2020年)リモートワークを取り入れた後の7月に、社内で困ったことはないかというアンケートを取りました。その結果、約3割の人がリモートワークに関して、不便や困りごとがあると回答しました。ところが、昨年末の11月に同じアンケートを実施すると、困っている人の割合が5%にまで下がったのです。つまり、慣れていくことでマインドも変わるのではないかと思うのです。

岩下氏:それは素晴らしい結果ですね。つまり、便利だということが実感できれば人の気持ち=マインドも変わる。

神谷氏:はい。私には子どもが二人いますが、小学校から日本はそもそも紙が多いですよね。アメリカなどはタブレットなどにお知らせが載りますが、日本は異なる。良くも悪くも紙が好きな国民性なのかもしれません(笑)。電子化について考えてみても、コロナ禍の前までは一部の業種や事業改革が必要な企業は取り入れようとしていましたが、それはごく一部。

 たとえば弊社での取り組みでいうと、ソニー銀行さんの事例がそれです(参考)。当初は、数億円規模の住宅ローンを電子契約サービスで通すなんてとんでもないという意見が社内でも大半だったとか。もちろん法律上は電子でも問題ありません。マインドがそうだっただけなのです。この状況をソニー銀行さんはトップが「変える」という強い意志で推進した結果、大きな変革、そして成長につながった。

 これは余談ですが、弊社ではコロナ禍と関係なく2020年3月に在宅勤務についての調査「テレワーク勤務のメリットや課題に関する調査」を実施してます。当時はオリンピック中に電車が混み合うためテレワークで仕事は可能かというアンケート内容でしたが、その結果6割の方が「紙が必要なので(テレワークは)難しい」と回答していました。

押久保:その後、本当にテレワークが必要な状況になりました。

神谷氏:最初はやっぱり何を紙に残し、何を電子化するのかというのが政府側の指針もなかったので、大手企業は特に電子化に踏み切れなかったようですね。それから少しずつ規制が緩和され、だいぶ状況が変わってきました。結果、上場企業の多くは電子化を導入しています。また、特筆すべきはその導入までの期間です。通常こういったシステムの変更には数年かかるものですが、今は急を要するお問い合わせも多く、コロナ禍前とはもう比較ができません。

押久保:切迫感があるということですね。

神谷氏:導入までのスピードが速いということは、意思決定が迅速に行われているからでしょう。特に海外の企業に関しては社員の安全が重要とされるので、我々の会社もそうですが、CEOが会社に行くなと決め、リモートワークが強制的に始まる。トップの判断でシステムの導入も早く行われたりしていますね。

押久保:民間のほうではそのトップの意思決定次第で、会社の未来が変わりそうですね。行政はどうでしょうか。岩下先生のお考えもお聞きしたいところです。

岩下氏:役所に提出する書類はハンコを押すものが多いのですが、認印でいいのです。河野大臣も話していおられましたが、認印なら100円ショップで買えてしまう。実印であれば区役所に登録している印影があるので、それと照合できるので必要性がまだわかる。そういう(実印の)効力を期待しているなら、ハンコが必要というのもわかります。しかし、役所に提出するものの多くは、実は認印だけで良かったりする。ここに課題があります。

 民間で脱ハンコができるようになってきたのは、こうした認印が無意味なものだとわかったからです。効力のないものに時間を取られているのにもかかわらず、ハンコさえ押されていれば、大丈夫。そういう認識がまだあるのですよね。だから立派な文章、責任の多い文章ほど脱ハンコが難しくなってしまう。

神谷氏:それはドキュメントの世界でも一緒だと思います。古い慣習的なものを一気にデジタル化し、それを新しい習慣とするのは大変なことです。トップが「やろう」と言わないとなかなか動けないですよね。これまで私も多くの企業の導入に対してお手伝いさせていただいてきましたが、トップの意識は非常に重要だと感じます。

切羽詰まった時が、一気にブレークスルーさせる機会でもある

押久保:トップの意識が重要ということですが、この状況がトップの気持ちを変えて、一気にブレークスルーするということはありそうですか?

神谷氏:私は今がチャンスだと思っています。こういう切羽詰まった時が新しいビジネスが動くタイミングです。特に日本はそういう傾向があります。たとえばOSサポートが切れるとわかると、すごいスピードでみんな入れ替えますよね。今がそのタイミングかなと思います。そういう意味ではデジタル化への追い風となっている。

押久保:その動きが、コロナが落ち着くと元に戻っちゃうという懸念もあります。

神谷氏:おっしゃる通りです。昨年の4月〜6月の間というのは多くの引き合いがあったのですが、緊急事態宣言が解除されてから導入をやっぱりやめようかな、というお話は実際にありました。でも業界としては、テレワークをきちんと浸透させたいという気持ちが強いと思います。

岩下氏:仕事上で目標設定がはっきりでき、どこで仕事をしても成果が出せればいいというふうになれば、テレワークも浸透するでしょうね。

神谷:ちなみに弊社はコールセンター業務を外注しています。中でもアメリカはコールセンターの社員が自宅で仕事をすることが多い。日本ではまだ自宅比率は少なかった。

 しかし今回、北海道にあるコールセンターは一時出社できなくなりました。そこで自宅でインフラを整えるようにしました。すると、アメリカ同様、きちんと回ったのです。加えて営業もリモートになったのですが、実際の訪問よりもお客様へのアポイントが取りやすくなったという声もあり、効率が上がったのです。

押久保:それは素晴らしい実績ですね。ただ、すべての会社がそういうわけにはいっていないかもしれません。特にバックオフィスの人は大変だったということもありそうです。会社がペーパーレスじゃないとやっぱり出社しなくてはいけないですよね。

岩下氏:それはありますね。日本では2023年からインボイス制度(適格請求書等保存方式)も始まります。課税事業者たる多くの企業はインボイスの発行と保存が義務づけられます。

 このインボイスが紙でないと難しいということになると、日本中のオフィスでペーパークライシスが起こる可能性が高い。行政側で電子化されているものもいくつかありますが、様々な制限や制約があるのが現状です。もう少し利用しやすい仕組み作りが求められるでしょう。

ハンコ文化をそのままデジタル化へ移行するのはDXではない

押久保:実現手段についてもう少しお話を聞かせてください。アドビさんは共通のプラットフォームを提供していますが、企業が電子契約サービスや電子署名(※)を導入するにあたり、最初に考えるべきことはなんでしょうか。

※電子契約に関する質問 「電子署名」と「電子サイン」の違いはなんでしょうか?

神谷氏:元々の業務が紙ベースの場合、どこを電子化するかをまず考えないといけません。ハンコやサインを電子化するというソリューションもありますが、それは最後の承認部分のみの話です。その前に全体のドキュメントを電子化する必要がありますが、たとえばそのドキュメントが600ページあるものであれば……スマホで閲覧は困難ですよね? そのため電子化における企画・設計が重要になります。

岩下氏:これまでのハンコと同じ感覚で電子署名を使うのは実は難しい。日本では書類を読んだらハンコを押す、という習慣もありますが、これってそもそも本当に必要でしょうか? ハンコを押すと「やった」感はありますが、改ざんや未承認を防ぐためであれば、電子署名のほうがセキュリティ的にも安心です。

 ただ、今までのハンコと同じようにすべての書類に対して電子署名を付与すると、作業負担はむしろ重くなります。電子化をきっかけとして、業務に必要なものと不要なもの、大事なものとそうでないものと仕分けする必要がありそうです。

押久保:それを考えるのが面倒だから、すべてにハンコを押すというよくない風潮もありますね。

岩下氏:そうですね(笑)。ハンコを押すことは本当は面倒くさいことなのです。だからこそ、それは大事な書類でもあるはずなのですが、今はとりあえずハンコを押すという風潮になってしまっていた。見直すべきだと思います。

押久保:電子契約サービスには日本にもいろいろなクラウドサービスが増えています。その先に共通のフォーマットが出来上がっていくのでしょうか。

神谷氏:それはとても難しい質問ですね。海外だと弊社のAdobe Signのシェアが高い。日本にも外資および多くの国内競合他社がおり、競争は激しい分野でありますが、私たちアドビは歓迎です。なぜなら国ごとに法律や制度が異なり、私たちが即時即応できないことも多々あるからです。社会が良くなるのであれば、それは私たちも支持したい。

 その結果、一つのフォーマットで統一されることはないのかもしれません。でも、それでいいのです。アドビとしての強みを言わせてもらえれば、何の上にサインをするか? となると、やはり紙に置き換えることができる共通のフォーマットは、私たちが開発し提唱しているPDFになると思っています。

押久保:各国のローカライズは、各国で成長していけばいいということでしょうか?

神谷氏:はい。さらに電子契約サービスはそれだけで使用できるわけではなく、グループウェアに紐付いているものが多いです。それぞれの相性があるから、私たちとしては、お客様の使っている既存のシステムの中でアドオンとして使われるような仕組みを作りたいと思っています。

岩下氏:会社の登記書類を電子署名で持っていっても、登記所の人は対応できませんよね。なぜなら確認のしようがないからです。だから今はハンコが必要となりますが、それが問題です。私はデジタル化が進み、議論が起きればいいと思っています。世間では電子署名を使っているのに、なぜ国との間では使えないのかという議論。これが大事です。そもそもハンコを押すという慣習自体が明治以降にできたものなので、社会の変化で変わっていくはずなのだから——。

神谷氏:岩下先生、どんどん進めてほしいです(笑)。

押久保:お願いします!

岩下氏:いやいや、これは官や学だけでなく民も一斉に変わっていくことなので、お二人もお願いします(笑)。行政については、各省庁も電子化が遅れているとは言われたくないのです。げんに河野大臣がやめますと言ったら、みんなわかりましたって言ったでしょう。誰かが言えば、変わることはできるのです。

脱ハンコは行政だけでなく官民学で変えていくべき

押久保:そういう感覚が芽生えるのはいいことですよね。他にも何かありますか?

岩下氏:今回の脱ハンコは様々な場所で議論が起こりました。その中で行政側が悪いという話も多く取り上げられてきましたが、もちろん行政側だけの問題では実はないのです。

 たとえば、紙中心で仕事をしてきた司法書士などの士業の方には、電子化することで仕事がなくなるという懸念を抱く方もいらっしゃる。一般の方の中でも、「今までこれで問題なかったのだから、このままでいいじゃないか」と考える方もたくさんいます。ITリテラシーの高くない方であればあるほど、その気持ちは強いでしょう。こういう方々に対しても電子化のメリットを伝え、理解していただく必要があるのです。

 一つの好例として、私の古巣でもある銀行業界が挙げられます。今、住宅ローンの契約を完全電子化しているところが多いのはご存知ですか? 住宅ローンの書類はとにかく分厚い。そこにハンコをべたべた押していく。その作業だけでも1日仕事です。その上、この分厚い書類を銀行側は保存しないといけません。倉庫代も高くなっている中で、その紙保存の必要性については疑問の声がありました。それが電子化しても問題ないという流れになったので、各行が一斉に電子化へと動きました。結果、経費も削減でき、効率化できた。紙をなくすことについて、悪いことを言う方もいらっしゃいますが、いいところもたくさんあります。こういう便利さを実感してもらえばいいですよね。

神谷氏:岩下先生がおっしゃる通り、金融機関や不動産の契約などを皮切りに、今は業界問わず電子化の動きが活発です。企業だけでなく教育の分野でもそうです。立命館アジア太平洋大学は留学生の資料など電子化しています(参考)。

 実は海外の大学などではこれが当たり前のワークフローです。大学に限らず日本企業も海外との取り引きが増えれば増えるほど、導入しなくてはいけなくなります。つまり遅かれ早かれ、多くの企業や組織がデジタル化しなくてはいけなくなる。遅くやるより早く着手したほうが、ノウハウもたまります。そのためには、繰り返しになりますがリーダーの意識の変化が求められるのではないでしょうか。企業であれば経営層ですが、社会全体で考えると国ですよね。行政にも強力に牽引してもらいたいです。

岩下氏:行政のシステムも民間のシステムもパソコンを導入していますが、それで紙を印刷してハンコを押しているという状況ではデジタル化とは言えないのですよね。デジタルの力を活用していないということを、今、多くの方が気づいているタイミングでもあるかもしれません。

押久保:過去に私がモデレーターを務めた対談でも、これまでの仕事をデジタル化することはDXではないという話で盛り上がった経緯があります。

岩下氏:そうですね。これまでは、コンピューターがなかった時代の仕事をコンピューターを使って行うという仕事の仕方が多かった。今は、それはそもそも必要なのか? という視点で変革するタイミングです。業務をもっと効率化して、人々の力をクリエイティブに使うほうがいい。そのほうが企業や国の成長につながるのではないでしょうか。

 日本人は真面目な人が多いので、ハンコを押すということを規範としてしまったのではないかと推察します。その結果「効率が下がってしまった」では、悲しい。公的機関がデジタル化して新しいスタンダードを提示する必要があるでしょう。デジタル化にピンとこない人たちにも、いいことだとわかってもらえるようなムーブメントを作っていけたらいいですね。コロナは厄災ですが、デジタル化、DXのブームを後押ししている。この危機をチャンスと捉えるべきでしょう。

押久保:なるほど、今まさに大きく動くタイミングというわけですね。岩下さん、神谷さん今日はありがとうございました。

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