友人とFEPのマルチアプリケーションインターフェースを発案・実現へ
中西さんが学生時代を過ごした1990年前後はインターネット黎明期。慶応大学の村井純教授が設立した学術ネットワーク「JUNET」などから世界のインターネットの胎動を知り、集合知や外部補助記憶脳としての可能性をネットワークに見出した。こうした分野を「生業にしたい」と思うようになり、情報ネットワークを専攻した。
一方、当時国内のPCではPC-9801とMS-DOSベースのソフトウェアが主流で、日本語入力は「FEP(FrontEnd Processer)」と呼ばれていた。今では信じられないが、アプリケーションとFEPはセットのような状態だったのだ。つまり、文書作成の一太郎を使うならFEPはATOK、表計算のLotus 1-2-3を使うならFEPは松茸という具合だ(細かいバージョン表記は目をつぶってほしい)。アプリケーションごとにFEPが異なると、使い勝手や漢字変換の学習が分断されてしまうことが問題だった。
そのころ、エー・アイ・ソフトが開発するFEP、WXシリーズが徐々に進化を遂げていた。WXII+になるとMAPI(マルチ アプリケーション プログラミング インターフェイス)により、異なるベンダーの複数のアプリケーションでFEPとして利用できるように。実はこのMAPI、まだ学生だった中西さんが発案して、友人とエー・アイ・ソフトにアイデアを持ち込むことで実現に至ったという。
これは画期的なことだった。中西さんがPCショップに行くと、見ず知らずの人たちがWXII+を手に取って「これ、すごいんだよ」と興奮気味に語る声を聞くことがあった。そのとき中西さんはゾクゾクと身震いを感じたという。「あとで振り返ると、先輩諸氏が“技術者冥利に尽きる”と語る感覚を学生の頃に覚えてしまったんですね。ちょっとした工夫で良い製品が評価され、驚きをもって世界や社会に知れわたり、飛ぶように売れるようになって、さらにみんなに喜んでもらえる。そういう仕事もあるんだなと実感しました。そして、どうもそれが“マーケティング”という仕事らしいぞ、と。正確には、マーケティングとプロダクトマネジメントをあわせた役割だと思うのですが」(中西さん)
幸運にも就職して社会人となる前に、仕事の成功体験を垣間見ることができた。この体験で得た自信はその後のキャリアパスの支えになったのではないだろうか。