「それはDXではない」という定義論争が、現場の変革を5年も停滞させた。小さな改善を否定する「真のDX」論から脱却し、AI時代の今こそ、現場の実行力に基づく「実装型DX」へ舵を切る時だ。連鎖する小さな成功こそが組織を変える鍵となる。

「2025年の崖」は終わったのか?「真のDX」論から何が生まれたのか?
「2025年の崖」が指摘されてから数年、気づけばその2025年も終わりを迎えようとしています。この間、メディアや有識者の間では「それは単なる業務改善であり、DXではない」「真のDXとは事業変革だ」といった議論が繰り返されてきました。
では、こうした言葉から一体何が生まれたのでしょうか。現場から見れば、驚くほど少ないのが実情です。議論は盛んでしたが、実行は停滞し、成果は限定的でした。むしろ「それはDXではない」という指摘が、動き出そうとした現場の行動を止める理由として機能してしまいました。
コロナ禍の最中、多くの企業がリモートワーク導入を余儀なくされました。DX部門や業務改革部門はSaaSやオンライン会議ツールの導入に奔走し、業務部門とIT部門の間をつなぎ、具体的な成果につなげた事例も数多く見られました。しかし、こうした地道な取り組みが「DX」として正当に評価されることは、決して多くありませんでした。ペーパーレス化で業務効率が20%向上しても「業務改善のレベル」とみなされ次の予算が認められない。ある金融機関の営業部門では、顧客データのデジタル統合により訪問効率が35%改善したにもかかわらず、「本質的な変革ではない」という理由で継続支援が打ち切られました。
最も疲弊しているのは、現場のDX担当者です。経営層は「真のDX」の明確な定義を持たないまま漠然とした変革を求め、DX推進者自身も「これは本当にDXなのか」という自問に囚われ、現場社員からは「また新しいシステムか」と冷ややかな反応を受ける。三者の間で板挟みとなり、小さな改善を積み上げても評価されず、「それはDXではない」という呪いのような言葉に追われ続ける。深夜のオフィスで資料を作りながら、自分たちは一体何のために努力しているのか。この問いに答えられないまま、多くの担当者が静かに消耗しています。
誰が「真のDX」を必要としているのか
なぜ「真のDX」という言説が、これほど強固に残り続けているのでしょうか。
構造を観察すると、定義論争から利益を得ているプレイヤーの存在が見えてきます。それは必ずしも悪意からではなく、それぞれの立場における合理的な動機から生じています。
メディアの論理
「真のDX」「DX失敗の本質」といった論調は読者の関心を引きますが、地方自治体の窓口業務効率化や中小企業の在庫管理システム導入は、ニュースバリューが低いと判断されがちです。現場の小さな成功は可視化されず、否定的な言説ばかりが流通する。結果として、「DXは難しい」「多くの企業が失敗している」という認識だけが強化されてしまいます。
行政の合理性
行政はDX推進指標や成熟度評価を通じて、先進的な取り組みを可視化し、横展開を図ろうとします。しかし、この枠組みが現場では「まだレベル1だからDXではない」「先進事例でなければ評価されない」といった心理的な壁を生んでいます。行政が求めているのは「モデルケース」であり、現場が必要としているのは「小さな一歩の承認」です。この目的のズレが、善意ある制度設計を変革の阻害要因に変えてしまっています。
コンサルティングのビジネスモデル
「それはDXではない」という問題提起は、次の支援案件を生み出す入口となります。「真のDX」という曖昧で高い目標設定により、継続的な支援の必要性が生まれる。ビジネスモデルの構造上、「完成しないDX」を前提とした提案になりやすい面があります。現場の小さな成功を称賛するよりも、不足を指摘し続ける方が、支援の継続性を確保しやすいのです。
ITベンダーの論理
ITベンダーにとっては、現場レベルの小規模な改善よりも、全社的な大規模システムの導入や刷新こそがビジネス上のメリットとなります。そのため、DXは「全社規模のシステム刷新」であるべきだという論調を強調し、現場発の取り組みよりも全社変革を推奨する傾向が強まっています。
現場との断絶
これらのプレイヤーに共通するのは、現場との対話不足です。メディアは大企業や有識者を取材し、行政は制度設計の段階で現場の声を十分に聞けず、コンサルタントは経営層との契約で現場に入る。「真のDX」という言説は、現場の実感から遊離した空中戦となっています。
メディア・行政・コンサルティング・ITベンダーという各プレイヤーが、それぞれの立場で合理的に行動した結果として、現場の変革を阻害する構造が生まれている。この構造を可視化し、対話を再構築することが、定義論争を終わらせる第一歩となります。
DXは一枚岩ではない──多層的な変革の全体像
DXを進める組織の実態を観察すると、その取り組みは明確に複層構造をなしています。
| DXの類型 | 目的・特徴 | 主な施策例 |
|---|---|---|
| 業務プロセスDX | 業務効率化・自動化による生産性向上 | RPA導入、ペーパーレス化、承認フローのデジタル化、在庫管理の自動化 |
| 顧客体験DX | 顧客接点・サービスの再設計 | オンライン予約システム、チャットボット、パーソナライズ施策、顧客データ統合 |
| 組織文化DX | 働き方・人材育成・意思決定の変革 | デジタルリスキリング、社内大学、アジャイル開発の導入、権限委譲の仕組み化 |
| ビジネスモデルDX | 収益構造・事業モデルの変革 | サブスクリプション化、プラットフォーム構築、データ販売、エコシステム形成 |
※個別組織を越えた産業レベルのDXも存在しますが、本稿では組織内DXに焦点を当てます。
いずれのDXも「変革」という目的において同列であり、優劣は存在しません。それにもかかわらず、「ビジネスモデルDXこそが真のDX」といったヒエラルキー的発想が根強く残っています。
しかし実態は異なります。業務プロセスの効率化から着手し、そこで得られたデータや知見を活用して顧客体験を改善、さらに顧客との新たな接点から得た洞察をもとにビジネスモデルそのものを再定義していく。業務プロセスDXが顧客体験DXの基盤となり、組織文化DXがビジネスモデルDXを支える。各層のDXが段階的に接続され、変革の範囲が拡大していく連鎖構造こそが、本質的な変革を生むのです。
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熊本 耕作(クマモトコウサク)
公益財団法人九州先端科学技術研究所(ISIT)特別研究員。現場から経営戦略、組織開発、AI活用まで——部門と領域を越えて全体をデザインする"越境型DXアーキテクト"。
20年にわたり、現場に深く入り込みつつ全社を俯瞰して構造を再設計。製造・調達・物流のDXからAIによる人員配置最適化、生成AIの全社展...※プロフィールは、執筆時点、または直近の記事の寄稿時点での内容です
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