特技は自己管理です(コントロールの行き届いた自己紹介)
「セルフマネジメントの極意とは、頭のなかに
3人の鬼軍曹を住まわせることである」
その本は、そんなふうに始まっていました。
書名は、「ITセルフマネジメント 崖っぷちからの生還」。
消臭スプレーのあくどい香りが、古書の悪臭を
ずさんなペンキの上塗りのように中途半端に覆い隠した
あのお馴染みの空気が充満する、場末の古本販売チェーン店。
100円コーナーのワゴンの中に押しこまれていたその本を、
ある男が手に取ったのです。
彼は、セルフマネジメント、すなわち自己管理の能力が
極端に低い男でした。
遅刻の常習犯であり、締め切り破りのA級戦犯であり、
信じられないくらいひどい忘れ物をよくしました。
彼の人生がゆるやかな下降線を描いているのは、ある意味で
この致命的で根本的な人間的不具合のためだとすら言えました。
この話はあくまでもフィクションですが、
そういう人間がいると思っていただきたいのです。
そんな人間がいるという仮定のもとに、この話を読んで
いただきたいのです。
さて、問題の「頭のなかの鬼軍曹」とは、
内心の葛藤をしめす表現としてマンガなどによく登場する
「天使の自分・悪魔の自分」の一変形といえるものです。
架空の存在に良心とエゴを代表させて
イエス・ノーの綱引きをさせるかわりに、
より強靱で支配力の強い人格をもった存在(鬼軍曹)に
三角形の安定した陣型をとらせることによって
心のブレを完全にシャットアウトし、自己管理を完璧に
行うというメソッドなのです。
問題の本は、このように語ります。
「おのれの心を律するのにおのれの心を用いるのは
自分の尾を喰らう蛇のごとき愚行であり、徒労である。
セルフマネジメントにおいては、アウトソーシングこそが
最適解なのである。
それを、あえて自分自身の脳内のみで行おうとするならば、
人格を分裂させてやるほかはない」
ようするに、強制的にみずからを多重人格化し、
別人格に自分の面倒をみさせようという魂胆なのでした。
店内の悪臭をはるかにこえた危険な臭いがします。
しかし、濁流に流されながら藁に手を伸ばすような表情で
男はその本を購入し、さっそくこのメソッドを実行したのです。
ITというだけあって、メソッドにはExcelを使用します。
方眼紙状に整えたExcel書類のセルを着色して一種の
魔法陣を作成し、それをひたすら眺め続けると、
奇声を発したり床の上を転がりまわったりという過程ののちに
人格分裂が完了するという仕組みです。
けれど、男が実際にこのメソッドを試してみると、
強制的な人格分裂の苦痛のはてに出現したのは、なぜか
かえるの自分とヘビの自分、そしてナメクジの自分、という
動物人格の三すくみでした。
縁起のいい夢を期待して枕の下に宝船の絵を敷いて寝たら
船ゆうれいの夢をみてしまった、というような塩梅です。
もはや人ですらないこれらの分裂人格たちがなにをするかと
いうと、何もできず、ひたすらすくみあっています。
硬直した分裂人格(*ただし人間ではない)に脳内リソースの
大半を奪われ、男の人生も深刻な膠着状態におちいりました。
三すくみのループは脳内でぐるぐると回転しながら
しだいに消費リソースを増やして大きくなってゆき、
男の本来の人格はどんどん小さく縮んでいって、ついに
一匹のハエになりました。
男であったハエはあっというまにカエルに喰われ、
それをきっかけに三すくみが崩壊します。
連鎖的にあらゆるものが崩壊し、最後に残ったのは
立ちあがれないほど疲弊しきった男ひとりでした。
憶えのない路上に倒れる彼の周囲を、たくさんのハエが
飛び交っていました。
男はいま、自分の体験をしたためています。
描きあげたら出版社へもちこむつもりなのです。
しかし、問題は、この体験の教訓がなんなのか、
彼自身がよくわかっていないということなのでした。