気がつくといつの間にかチャレンジしている
大学の専攻に選んだのは、バリバリの理系分野「物理情報工学科」。研究室ではナノテク分野で薄膜を使った化学センサーに関する研究を行った。とはいえ「大学ではあまり褒められるような機会もなく、ただ進級のために単位をとっている状況でした」。
そんな彼女が担当教授に唯一褒められたのが、文章。
「君は文章を書くのは上手いね」―この一言で文章を書く仕事をしようと決めた。結果的に就職したのは光学機器メーカー。そこでPCやカメラなどの精密機械で利用される半導体の製造装置のマニュアル制作という、かなりニッチな仕事で社会人生活がスタートする。
作っていたマニュアルはかなり複雑な機器の、さらにごく一部機能の解説文。最初はとにかく仕事に専念したが、あまりにも対象がニッチな専門領域だった。
「読者が見えませんでした。もしかしたら、二人くらいしか読んでいなかったかもしれません。誰に向かって文章を書いているのかわからず、だんだん退屈になってきて」
結局、ほんの1年3ヶ月でこの会社は辞めてしまうことに。
とはいえ、やはり文章を書くスキルを活かしたい。目指したのはマスコミだっった。行き着いたのは出版社。けれども編集や記者の仕事ではない。出版社であるダイヤモンド社の子会社が個人投資家向けの雑誌とWebサイトを新たに立ち上げるタイミングで、ここで証券アナリストとして働くことになったのだ。
「ディスクロ(Disclosure)って何だろう。最初はBS(Balance Sheet)も読めない。取材先の担当者のほうが詳しくて教えてもらうような状況でした。それでもなんとか、投資のための記事を書いていました」
とにかく必死で勉強をし、情報のキャッチアップに務めた。本もたくさん読んだしベテランのアナリストに付いていき初心者のような質問もした。
「恥はかきつくしました(笑)。当時は、20代の若さがあったからこそやらせてもらえた仕事でしたね」
こうして、なんとか仕事をこなしていくうちに、この仕事は自分に合っているなと感じるようにもなる。
「社会の中に自分の居場所が見つかった気がしていました」
証券アナリストの仕事も順調に進むようになったころ、ふと「このままでは世界が狭くなる」と考えた。この時、証券アナリストは正社員として採用されていた。ここから羽野さんはなんと、ダブルワークをするために契約社員に変更してもらうという暴挙に出る。こうして始めたのが、日経BPのWebサイト「ITpro」での派遣契約での記者仕事だった。証券アナリストと派遣社員での編集記者という二足のわらじは、その後2年間ほど続くことに。
2年経ったころ、証券アナリストとして働いていた会社がリーマンショックの煽りで事業をたたむことに。そこからはITpro専門となり、立場も派遣からフリーランス記者となった。ここから5年間ほど、IT専門誌でのフリーランスの仕事が続く。最初はそれこそ「OSって何ですか」という状況だったとか。それがだんだんと経験値も上がり立派なIT記者に成長する。もちろんその裏には、仕事となればとにかく必死に勉強する羽野さんの努力もあってのことだ。