「気の利いたことを言わないと」と思って口をついて出てきたのは
クラウドフレアは10年ほど前からビジネスを始動しており、アメリカのセキュリティ分野では定評がある。2019年9月にNYSE上場、2020年に入るとテレワークに有効なゼロトラストソリューションに期待が寄せられているためか、株価がぐんぐん伸びている。「これまでいた企業よりも時価総額では大きくなって」と青葉さんの顔に驚きと喜びが入り交じる。
青葉さんのここまでの道のりを振り返ってみよう。キャリアの始まりは84年のIBM入社から。最初はネットワーク周辺の開発をしていて、アセンブラでコーディングすることもあった。ホストコンピュータ中心の時代なのでプロトコルはSNA(Systems Network Architecture)、ホストと接続する端末をいちいち設定する必要があった。TCP/IP以前なのでDHCPやDNSがないため。今振り返ると想像しがたい世界だ。閉じたネットワークなので、当然ながら外部からのサイバー攻撃などなかった。
後にIBMでもTCP/IPを使うようになり、SEやコンサルタントへと進んだ青葉さんはルーターを選ぶ立場となっていた。当時の選択肢はIBMかシスコ。ヨーロッパのIBMはIBM製を選んだものの、アメリカと日本のIBMはシスコ製を選んだ。顧客からのRFP(提案依頼書)にはシスコ製が指定されるケースもあり、青葉さんの関心はシスコに傾き始めた。そして94年にシスコへ転職。まだ社員が十数名で知名度もない時だった。企業のネットワークをIP化する仕事が多かった。
インターネットが本格的に普及しはじめたのはWindows 95がリリースされた95年から。インターネットのセキュリティが課題になりはじめたのは2000年ごろから。そのころ青葉さんはSE部隊を率いていた。ある日、当時シスコ社長だった黒澤保樹さんが青葉さんに「将来は何をしたい?」と訊いた。青葉さんは「ここは気の利いたことを言わないと」と思い、口をついて出てきたのが「外資系企業の社長になりたいです」。今振り返るとここが青葉さんのターニングポイントであり、社長としての出発点だったのかもしれない。
「まじめに考えてなかったですけど」と青葉さんは笑う。本人は自覚していなかったかもしれないが、黒澤さんはちゃんと内なる意欲を見抜いたのだろう。「それならSEなんてやっている場合じゃないぞ」と営業はじめ、いろんな部署を経験させてくれた。
そして送り出してくれた。2008年からはデータセンター向けのネットワーク機器を扱うブロケードの社長に就任。青葉さんはブロケードを「ジャイアントとなったシスコから見れば小さいですが、シスコから見たら競合」と言う。大事な部下を送り出すのだから競合とは考えにくいが、信頼あればこそなのだろう。
経営者となり「パートナーはじめ、助けてもらわないとまわらない」世界を実感し、心がけたのは「裏切らないこと。(トラブルが起きても)逃げないこと」。青葉さんの声に力が入る。この理念を営業、エンジニア、サポート、すべからく共有できるように徹底的に議論した。飲む機会も頻繁に設けた。青葉さんは「昭和ちっくですけどね」と笑う。社内外ともにみんなで協力する体制を築けるよう、コミュニケーションには特に力を入れた。
後にブロケードは買収され、青葉さんは2017年からシトリックス・システムズ・ジャパンの社長に就任した。そして縁があり、2019年11月から現職のクラウドフレア日本代表へと就任することに。青葉さんは「クラウドフレアはソリューションが面白い。あとシスコに転職した時と同じにおいがするんですよ」と話す。まだ小規模で日本で知名度がなかったかつてのシスコと、現在のクラウドフレアはどこか似た雰囲気を感じるという。