「国連党」に「原子党」
保守合同を目前に控えた1955年10月31日、自由党と日本民主党による新党準備会の党名委員会が「広く国民の協力を得る」との建前から、党名を公募で決める方針を固め、11月8日、全国紙の朝刊に広告を出した。
「新党党名募集」と題した広告には、「保守新党は愈々11月15日をもって結党式を挙げる事になりました。ついては真に清新強力な政党にふさわしい党名を左記によって募集することにいたしました。奮って応募願います」とあり、締切日は結成大会2日前の12日、ハガキでの応募で、「採用の党名には記念品を贈呈」と記載された。
その結果、2,191通もの応募があり、最も多かったのが「日本保守党」で546通、続いて「民主自由党」と「保守党」が187通、次いで「日本国民党」が159通、意外にも「自由民主党」は1通で、中には、皮肉を込めた「民自結託党」、さらには「日本国華党」、「国連党」、「大和党」、「日の丸党」、「原子党」なるものまであった。
当初の流れでは「日本自由党」が有力視されていた。ところが、これに日本民主党の大多数のメンバーが猛反発し、結成大会前日に行われた解党大会では、怒号が飛び交う大荒れとなった。彼らは吸収合併のような形での新党結成を恐れたのである。
こうして結局、その夜に行われた会合において、「自由民主党」とすることで合意し、翌日、中央大学講堂において、華々しく結成大会を開催した。つまり、「自由民主党」という党名は、プロのコピーライターでも政党人でもない一般の国民が命名したのである。
通常、その新党が理想とする政治哲学や政治理念を党名に含めるが、余りにオーソドックスでは新鮮味に欠け、聞き慣れない言葉を使用すれば国民に馴染まない。新党のネーミングは実に難しい。(敬称略)