名和小太郎先生について
名和先生は、1931年に東京に生まれ、1956年に東京大学理学部物理学科卒業後、石油資源開発㈱に勤務されて60年まで人工地震による石油探査をされ、その後旭化成工業㈱に転職されて、ロケット燃料の生産管理やソフトウエアの開発・保守などのお仕事を77年までされてきた。
その後、シンクタンクとして設立された㈱旭リサーチセンターの役員としてソフトウェアプログラムの知的財産権や標準化、電気通信、情報セキュリティ、個人データ保護といった問題に取り組まれ、行政や自治体等からも多くの相談を受けて来られた。
企業を退職後は、新潟大学法学部(1991-96年)に新設された「法情報学」の教授として着任され、定年退官後は、関西大学総合情報学部教授(1996-2001年)として情報法を受け持たれた。定年退職後は、非常勤講師として国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(2002-07年)、情報セキュリティ大学院大学(2004-現在)と研究活動を続けられている。
汎用機が戦後開発され産業として成立するまさに黎明期からコンピュータに携われてきたという意味では、今日、プログラマーやシステムエンジニア、プロジェクトマネージャーと称される職業の草分けであったし、大学に移られてからは、情報技術と法の架橋をなす研究者としての草分け的存在である。
名和先生のビジネスパーソン及び研究者としての60年を伺うことは、日本のシステム開発と情報法制の歴史の一端を知る貴重な機会であった。
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コンピューターの黎明期
鈴木 名和先生、本日はインタビューの時間をいただきましてどうもありがとうございます。先生のビジネスパーソン及び研究者としての半生は、そのまま日本の戦後から今日までの情報処理、情報通信の歴史と重なるように思います。まずは先生の社会人の出発点からお伺いしたいと思います。大学のご卒業は何年でしょうか。
名和 卒業は1956年ですから、戦後10年というところですね。石炭から石油になるというときで、ちょっとまえに三井三池炭鉱で大争議がありました。政界が再編成されて55年体制ができました。ということで、たとえば入社試験の面接で「お前、何党を支持するのだ」と当たり前に聞かれた時代です。
鈴木 面接で思想信条を聞かれるのですか。
名和 ええ、私も聞かれまして、「私はどの政党も支持しない。期待するのは総評だけだ」と答えました。でも、それでも通してくれました。
鈴木 社会がそういう時代だったのですね。
名和 そういう時代でした。私は気が弱く、競争が嫌いな性分です。競争者のいない場所を探して、つぎつぎと渡り歩き、仕事を変えてきました。まず1956年に通産省関係の国策会社であった石油資源開発株式会社に入りました。そこで組合運動にのめりこみましたが、それが自分の性分にあわないことに気づき、4年後に旭化成(当時、旭化成工業)の中央研究所に移ったわけです。
ついでに申し上げますと、その後、1970年代末に旭化成の子会社のシンクタンク部門に移り、1990年代に大学教員に転職いたしました。まず、新潟大学、ついで関西大学でした。非常勤の教師としては、都立科学技術大学、千葉大学、広島市立大学、京都大学、ここで70歳。このあとは、東北大学、江戸川大学、国際大学グローコム、情報セキュリティ大学院大学、それから国立環境研究所にお世話になりました。ほとんどは文系の教師または研究員としてでした。
石油資源開発にいたときに、私に与えられた仕事は地震探鉱でした。この仕事は膨大な計算をこなさなければなりませんでしたが、そのための道具としては、手回しのタイガー計算器と計算図表しかありませんでした。
人工地震を起こし、地下からの反射波を測定しなければなりませんでしたが、その計測器はアメリカから輸入しました。それを日本のメーカーに渡して、模造品を作らせたりしました。
鈴木 それは禁止されていなかったのですか。
名和 知らなかったですね。話が横にそれますが、私の時代には大学生向けの教科書はないに等しく、海外の教科書のリプリントが出回っていました。少なくとも物理学科では。
鈴木 無断複製に対して無頓着だった時代なんですね。
名和 人工地震の計測器の模倣をお役人は知っていたかもしれませんが。ただ、それを第三者に売ることはしませんでしたよ。模倣品は自社で使いました。
旭化成に入り、私は中央研究所から工場に移り、そこでロケットエンジンの担当になりました。当時は糸川ロケット全盛の時代でした。東大生産研(のち、航空研)が主体で、プライム・コントラクターは日産自動車(富士精密、当時?)になるのですね。ロケット開発にはもう一つの流れがあり、科学技術庁の宇宙開発推進本部(のち、宇宙開発事業団)、プライム・コントラクターは三菱重工になります。三菱重工は私どもの会社に一緒にやろうと持ち掛けてきました。私はこのときに、エンジンの設計を手伝ったわけです。それがコンピューターにつながる始まりです。
私は工場でいわゆる軌道計算、こういうエンジン造ればここまで飛ぶ、というシミュレーションをやっていました。シミュレーションはコンピューターの計算時間を膨大に消費しました。当時コンピューターは高価でした。それを見た役員の一人が「あの若造を新しくできたコンピューター部門に移せ」といったとのことです。私はコンピューターのベテランと勘違いされて、出来たてのコンピューター部門に引っ張られたのです。
ところが、できたての組織というものは、本人の適性とは関係なしに集められた烏合の集団です。だから、会社のなかでは非力でした。ただね、それなりの会社でしたから、若い人たちだけは、優秀な人材を集めていました。当時、東京工業大学とか慶応大学とか、ちょうどコンピューター教育の一期生が出た頃でした。だから、経営工学とか、数理工学とか、そういう新設の学科や大学院を出た人が、もったいないぐらい集まりましたね。
それで、「お前はこの秀才たちの管理をしろ」と。要するに、秀才たちは、自分の楽しみのために仕事をしているのか、会社のために仕事をしているのか、それが分からない。それを可視化することが私の任務ということで。コンピューター部門に来たのが1970年、ちょうど万博の年でした。
当時、企業のコンピューター部門には二つの流派ありました。技術計算主導型と事務計算主導型とですね。技術計算というのは、当時はやりのオペレーションズ・リサーチをやってプラントの設計に役立てると。装置工業はプラントの出来のよい悪いが、ずっと後にまで効いてきますから。初めにいいプラントを造ったら、それで充分という考え方があったのですね。
もう一つは、昔からのパンチカード打つ方式、いわゆる事務計算ですね。これが当時、「事務工場」という言葉がありましたけれども、あるいは「ビジネス・オートメーション」というような言葉で、いろいろな部門の数値情報をまとめて、会社の経営情報を合理化しようということで。私の会社はこちらでした。