本気でシンガーソングライターを本業としていこうと思っていたのに
子ども時代はサッカー少年だった。お風呂でも「どのようにパスを回すか」と脳内でシミュレーションするほど没頭した。しかしケガでサッカーを断念すると、ピアノをしていた姉の影響で音楽へと舵を切った。意外と切り替えが早い。専門雑誌を読みながら音楽活動への夢を膨らませていった。
高校を卒業すると鳥取を出て、東京にある大学の経済学部に進学した。しばらくはボイストレーニング教室にも通った。当初は孤独にボイストレーニングに励んでいたが、音楽仲間ができると人生が輝いてきた。アカペラのグループに混じり、ライブハウスで洋楽ポップスなどを歌っていた。
学生時代は本気で「音楽で身を立てる」と考えていた。将来の姿として思い描くイメージには、大きな会場で満員の観客の前でギターを弾きながら歌う自分がいた。シンガーソングライターだ。家島さんは「人の感情を言葉にして、歌で誰かの力になれたら」と思い描いていた。
ところがある日、学食で母に思いを馳せたある瞬間、天啓が舞い降りた。母は専業主婦だった。いつか母を支えなくてはならない時が来ると気づき、「ぼくは母を支えられるだろうか。働かなくては!」と思い立った。
当時、体育の授業がきっかけでサークルのように親しい仲間がいた。その中で親しかった女性(現在の家島さんの妻)が先に就職活動に取り組んでおり、彼女についていくような形で家島さんはアシストの会社説明会を訪れた。そこで家島さんは外国人でありながら日本語がペラペラなビル・トッテン社長(当時)の存在に衝撃を受け、企業理念を聞いて感銘を受けた。トッテンさんの哲学と信念に共感し、「ここで働こう」と就職先に決めた。ITに関しては全くの未経験だった。