SaaSをグロースさせるLTV思考とは
モデレーターを務めた森氏は、講演タイトル「SaaSをグロースさせるLTV思考 - 日本と米国の違い - 」に掲げた「LTV」についての説明からディスカッションを始めた。
LTV(Life Time Value)とは顧客生涯価値のことであり、ARPU(Average Revenue Per Account:1顧客あたりの平均月間売上高)をチャーンレート(解約率)で割ることで求められる。
例えば、あるソフトウェアのARPUが1000円、チャーンレートが10%だとすると、LTVは10,000円となる。SaaSのビジネスでは、基本的に分子のARPUの向上をマーケティング、インサイドセールス、フィールドセールスが、分母のチャーンレートをカスタマーサクセスが低く抑えるを考え、LTVの最大化を目指す。このことを踏まえ、ユーザーが利用したい期間だけ使えるSaaSのビジネスの評価は、単に売上や利益ではなく、LTVがベースになると森氏は説いた。
LTVはマーケティング投資の意思決定にも有用である。SaaSビジネスでは、LTVをCAC(Customer Acquisition Cost:新規顧客の獲得単価)で割ったものが3倍を下回る場合、マーケティングへの投資は適正水準にあると判断する。
SmartHRではこの基準を使い、創業当初から積極的にテレビCMも展開してきた。宮田氏は、「LTVをマーケティング投資の意思決定に使うため、分子を売上の代わりに粗利に変えるカスタマイズをしている」と明かした。
森氏の上司である佐久間衡氏(ジャパンベンチャーリサーチ 代表取締役 兼 FORCAS 代表取締役)は、SaaSの特徴を説明する際、「集合知の活用」「永遠のベータ版」「ユーザーとの嘘がない関係」「予測性と再現性」という4つを挙げるという。
特に4番目の「予測性と再現性」は、ユーザーが使った分だけ対価を支払う「サブスクリプションモデル」との関係が深い。サブスクリプションモデルの場合、一般的な売り切り型と比べ、毎月の収支がわかりやすく、投資回収の売上予測を立てやすいという利点がある。
例えば、あるSaaS企業の2018年の売上が100億円、チャーンレートが10%と仮定すると、解約分を金額換算すると10億円。これに新規の売上などが加わるが、翌年は90億円+αの売上は確保できると予測できる。
LTV思考とファイナンス思考との共通点
この予測が成り立つのは、サブスクリプションビジネスの売上が定期的に計上される性質を持つためである。Zuora創業者兼CEOのティエン・ツォ氏は、自著『サブスクリプション――「顧客の成功」が収益を生む新時代のビジネスモデル』の第13章で、以下に示す3つの重要な指摘をしている。
- 定期収益はサブスクリプションビジネスの土台だが、従来の会計はこの事実を考慮に入れて設計されてはいない。
- サブスクリプションビジネスの営業およびマーケティング費は、将来に向けた戦略的支出と考える必要がある。
- サブスクリプションビジネスの損益計算書は、将来何が見えるかを記述するものである。
「この指摘に朝倉氏が提唱する『ファイナンス思考』と共通するものを感じた」と森氏は述べ、パネリストの一人である朝倉氏に「ファイナンス思考」の解説を促した。
朝倉氏は、2018年7月に出した著書『ファイナンス思考――日本企業を蝕む病と、再生の戦略論』で、「目先の利益を重視するのではなく、将来得られる価値の最大化に向けた先行投資が重要」と主張している。その対立軸に置いた考え方が「PL脳」である。企業価値ではなく、損益計算書における売上や利益(営業利益、経常利益、純利益)の最大化を気にしすぎることの弊害を朝倉氏はこの言葉に込めた。
ファイナンス思考で重視する企業価値(あるいは事業価値)とは、事業が長期にわたり継続することを前提に、将来のキャッシュフローを予測し、それを現在価値に換算し直したものである。投資の中には1年で回収できるものもあるが、回収までに3年から5年かかる場合が少なくない。経営者は将来の事業規模から逆算して考え、投資額の妥当性を判断する。
日本企業がファイナンス思考を必要とするのは、企業価値と直結する日本の時価総額が、過去数十年に渡って成長していないからだ。日本企業が成長できていない原因としては、人口減少の影響が大きいとしつつ、朝倉氏は「経営者にファイナンス思考が欠如しており、将来の価値を生み出す事業を作ることができていない」ことを問題視する。
SaaSのビジネスは定期収益を得られるようになるまでの先行投資が不可欠であり、短期的な収益を追うことよりも、逆算型の思考が必要になるという意味で、LTV思考とファイナンス思考は共通する点がある。「経営者がどれだけ我慢できるか。そして周りの投資家が支えられるかが求められる」と朝倉氏は訴えた。