どうして「CIO」に? 三者三様のターニングポイント
──CIOになったきっかけやターニングポイントを教えてください。
喜多羅滋夫氏(以下、喜多羅):実は、30代半ばで今後のキャリアを考えたときに、一番やりたくなかった仕事がCIOだったんです(笑)。新卒でP&Gの情シス部門に配属され、たまたま基幹システムやネットワークではなく、営業やマーケティング部門の人たちと仕事をする機会が多かった。商売の第一線に携わるのが楽しくて、「システム極めて何になるんや」と思っていました。
でも、実際にマーケティングの仕事に就いて気付いたんです。マーケターとしての私は普通の人。私独自の価値は、情報システムのプロでありながら、営業とマーケティングが分かり、商売の感覚も持っていることにあるんじゃないかと。
その後、フィリップモリスで5年間、日本法人のIT本部長をやりました。やったんですが、グローバルCIOとの間で、どこかバランスを取っている自分がいたのです。やはり自分で自分の運命を決め、「責任を持ってやり切りたい」と思うようになりました。その後、日清食品ホールディングスでCIOを務めた8年間は、経営メンバーとしてITを武器に貢献していくことが、すごく楽しかったです。
長谷川秀樹氏(以下、長谷川):私は、CIOになりたくてなったというよりは、一生懸命やっていたらなっていました。30代でアクセンチュアから東急ハンズに転職して1年後、CIOをテーマにしたインタビューの依頼がありました。当時の東急ハンズには、CIOという役職自体なかったのですが、専務が「長谷川君が実質CIOなので、CIOを名乗って問題ない」と。
──何をどう一生懸命やったのですか?
長谷川:今より100万倍は謙虚だったんですよね。意識していたのは、成果を自分や自分の部署のものとしてひけらかさないこと。経営会議などで発表するときは、「役員のAさんの発案で、こんなのができました」と。経営陣は「Aさん、いいじゃないか」。するとAさんは、「長谷川、ちょっと面倒見てやらなあかんな」となりますよね。次から仕事がやりやすくなる。
──会社員は自分が結果を出したから昇進するものであって、自分の成果を発表せずに昇進する、ましてやCIOになるのは難しいのでは。
長谷川:その答えはただ一つ。余るほど成果を出すことです。そうすれば、手柄を譲ったところで痛くもかゆくもない。
友岡賢二氏(以下、友岡):私が真にCIOを目指したのは、アメリカでの出会いがきっかけでした。2007年にパナソニックの米国法人でCIOになったのですが、当時はまだ課長に毛が生えたような存在。そこで、当時のIBMのCIOに1on1をお願いし、率直に「CIOって何をする仕事なんですか?」と尋ねてみたんです。すると、「CIOはビジネスを変革するリーダーです」という答えがきました。ITやシステムの話が一切出てこないことに驚いて「テクノロジーは?」と聞いたら、「テクノロジーはイネーブラー(enabler)です」と。
その瞬間、あまりの衝撃で3つ目の眼が開きました。私が思っていたCIOとはまるで違う、本物のCIOがそこにいたんです。それから彼女がどのようにしてグローバル企業のITを掌握し、プロセスや組織を改革したのか、リーダーシップの在り方、乗り越えてきた壁、その手応えなど、熱のこもった1on1が続きました。「この仕事、めちゃくちゃカッコいい。私も本物のCIOになりたい」と思いました。
──今では友岡さんが、CIOとは何かを伝える立場ですね。
友岡:日本とアメリカでは、CIOの役割や重要度が、経営者の認識も含めてあまりにも違いすぎる。だから「日本でCIOを職業として確立しよう」と決意しました。それで、武闘派CIOを名乗っているんです。日本では今でも、CIOがいる企業の割合が少ないのが実情です。「日本の会社、CIOがいなくて大丈夫ですか?」と強く言い続けたい。そして、CIOは何をすべきか、私が学んだこと、教わったことを、こうやって皆さんと対話しながら伝えていきたいと思っています。
──CIOに向き不向きはあると思いますか?
友岡:あると思います。ITは動きが速く、せっかく身につけた知識がすぐに使い物にならなくなることも。CIOに向いているのは、この状況を楽しめる人です。でないと、この仕事は苦痛でしかない。別の道を探した方がいいでしょう。