量子脅威の到来「2029年説」が現実味を帯びる “猶予わずか”の今から始めるPQC移行
第1回:日米欧の規制動向とエンタープライズの実態から読み解く
「耐量子暗号(以下、PQC)への移行は2035年までに完了すればよい」──そう考えている企業は少なくない。しかし、その認識は危険である。量子コンピュータの実用化を待たず、暗号化されたデータを今のうちに収集し、将来的に解読する「Harvest Now, Decrypt Later(HNDL)」という攻撃が現実のリスクとなりつつあり、各国政府や標準化機関も移行に向けた準備を加速させている。PQC対応は単なる暗号アルゴリズムの置き換えではなく、IT資産の棚卸し、システム刷新、ガバナンスまで含めた全社的な変革だ。そのため、対応をIT部門だけに委ねることはできず、経営判断として取り組む必要がある。本連載では、「2035年に間に合わせる」ために企業が今から何を考え、どのように準備を進めるべきかを「経営」「技術」「運用」の3つの視点から解説。第1回は、なぜ今、経営層の意思決定が求められるのかを、国内外の最新動向と実務の観点から整理する。
将来の解読を狙う「HNDL攻撃」……PQC移行の必要性
量子力学の法則を演算に利用する計算機である量子コンピュータの概念が生まれたのは1980年代で、いくつかのマイルストーンを経て現在も精力的な研究開発が進められている。現在の主流であるコンピュータ(古典コンピュータ:量子論以前の古典物理学に基づくことからこう呼ぶ)の限界を超える演算性能を持つ量子コンピュータ。これにより、今は演算に時間がかかりすぎて事実上解けないとされている問題も解くことができるようになると期待されている。
その一例が暗号解読だ。現在の暗号アルゴリズムは、スーパーコンピュータを使って解読を試みたとしても解読までに非現実的な時間(一説には1億年以上とも)がかかり、解読は現実的ではない。しかし、量子コンピュータが実用化されると現実的な時間内に解読できてしまうと予測されている。こうしたリスクは、かつて「もしも量子コンピュータが実用化されたとしたら」という架空の話として語られていたが、そのリスクは既に現実のものとなりつつあるのだ。
遡ること2019年、Googleが「量子超越性」を実証したと発表したことから世界的に一気に量子コンピュータブームとも言うべき状況が生まれ、日本でも量子アルゴリズムの研究開発や社会実装に取り組む産学官連携プロジェクトなどが立ち上がった。ただし、この時点での量子コンピュータはまだまだ現実的な成果を挙げられるレベルではなく、少々期待を盛り上げすぎてしまった感もある。その後、実用的な量子コンピュータが完成するまでにはまだ10年以上は掛かるだろうという予測が出てきたことでブームが沈静化。やがて世間の関心は生成AIを始めとするAIブームに移ってしまった。
だが、決して量子コンピュータの開発が頓挫したわけではなく、世間一般でのブーム的な関心の高まりが去っただけで、この間、技術開発は粛々と進められてきた。現在は、間もなく到来する量子コンピュータ時代に備えるための具体的なロードマップを実行に移すタイミングを迎えている。
量子コンピュータ時代にどう備えるかを考える上で重要なキーワードとなるのが「HNDL(Harvest Now, Decrypt Later)」だ。これは、(現時点では解読できない)暗号化された情報を大量に収集しておき、いずれ量子コンピュータが実用化された段階で解読するという攻撃手法だ。
インターネット上で「暗号化されているから」という前提でやりとりされている情報も例外ではない。加えて、ランサムウェア攻撃によって持ち出された暗号化データも対象となる。現在主流の二重恐喝では、データを暗号化する前にまず外部へ盗み出し、「非公開にしてほしければ身代金を支払え」と脅迫してくる。盗まれた機密情報が暗号化されていれば直ちに悪用される可能性は低いが、将来に備えて保存され、いつか“時限爆弾”のように大きな被害をもたらすことになりかねない。
そのため、量子コンピュータでも解読できない暗号としてPQC(Post-Quantum Cryptography:耐量子計算機暗号)の標準化が進められているのだ。HNDL攻撃を想定するならPQCの導入は量子コンピュータが実用化されてからでは遅すぎる。既に機密情報の収集が始まっていると考えるのであれば、すぐにでも対応に着手すべき状況になってきていると言える。
「2035年」から「2029年」に前倒しで量子脅威は目前に
量子コンピュータの専門家コミュニティは、量子コンピュータが現実的な脅威となるのが従来の予測である2035年から2029年頃との予測でまとまりつつある。対策のために残された時間的猶予はほぼなくなりつつあるとみて間違いないだろう。
背景には、量子コンピュータ自体の開発が着々と進行していることに加え、量子アルゴリズムの研究も様々な成果を生み始めている。従来は過渡期的な存在に留まるだろうと考えられていた数百qubits程度の規模の量子コンピュータでも相当な演算性能を引き出せる可能性が出てきた。
主要7か国首脳会議(G7)のサイバー・エキスパート・グループは「金融セクターにおける耐量子計算機暗号への移行に向けた協調的なロードマップの推進に関するステートメント」[1]を公表しており、金融庁でも仮訳という形でこの内容を日本語で公開している。そこには「政府または民間部門のシステムあるいはその両方を対象とした量子耐性のある暗号への移行の全体的な目標として2035年を挙げていることが多い」と記載されている。この目標は、遅くとも2035年には移行を完了しているべき、という目標として受け止めるべきであろう。
同ステートメントでは「認識と準備」「検出とインベントリ」には2025年から、「リスク評価と計画」には2026年からそれぞれ着手すべきとあり、「移行実施」は2027年からと位置づけられている。移行作業にも相応の負担が生じることを考えれば、時間的猶予はもうないと言える。
直接的に耐量子暗号への移行を求めているわけではないが、EUの金融業界のレジリエンスに関する規制であるデジタルオペレーションレジリエンス法(DORA)の動向も日本企業に影響を及ぼすと考えられる。現代のビジネスは複雑なグローバル・サプライチェーン網によって相互に連携しているため、信用/信頼の基盤を構成している暗号技術が無効化された場合、全世界的な信用不安に陥るリスクがあることまで考えた対策が必要だ。同様に、他社のPQC対応が進む中で自社の取り組みが遅れたら、サプライチェーンから排除されるリスクも考えておくべきだろう。現在では、サイバーセキュリティに対する取り組みによってサプライチェーンへの参加条件となることが一般的になっているが、PQC対応も同様になる可能性が高い。
実際、こうした動きは各国で加速している。米国は2026年6月22日にトランプ大統領が量子技術に関する2つの大統領令[2]に署名し、量子分野におけるリーダーシップ強化とともに、連邦政府全体での耐量子暗号(PQC)への移行を明確に打ち出した。各政府機関にはPQCの責任者の設置が求められ、高価値資産については鍵交換を2030年まで、デジタル署名を2031年までに移行することが義務付けられており、従来の2035年という期限は大きく前倒しされている。さらに、これらの要件は政府のみならず、調達先の企業にも適用される見通しだ。
一方、日本においても産業基盤の強化に向けた政策が進みつつある。政府は経済安全保障推進法においてクラウド技術を「特定重要物資」に追加し、量子コンピューティング向けクラウドサービスの開発に対して最大50%、その他のクラウドサービスに対しても最大33%の補助を行うとしている。
これらの動きは、PQCや量子関連技術が単なる将来技術ではなく、国家安全保障および産業競争力に直結する現実的な経営課題として位置付けられていることを示している。
[1] 金融庁「G7サイバー・エキスパート・グループによる金融セクターにおける耐量子計算機暗号への移行に向けた協調的なロードマップの推進に関するステートメントの公表について」(2026年1月15日)
[2] The White House「SECURING THE NATION AGAINST ADVANCED CRYPTOGRAPHIC ATTACKS」(June 22, 2026)
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成尾 明久(ナルオ アキヒサ)
キンドリルジャパン株式会社 コンサルト・プラクティス事業本部 金融事業部長金融機関の全社DXや業務改革を中心に、ゼロベースでのBPR、デジタル化実現支援、AI利活用、オペレーションモデル変革、チェンジマネジメントなどに豊富なコンサルティング経験を有する。AIガバナンス、セキュリティ、人材変革やリスキ...
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吉田 卓(ヨシダ スグル)
キンドリルジャパン株式会社 セキュリティ&レジリエンシー事業部 コンサルト・プラクティス・リーダーサイバーインシデント対応、デジタルフォレンジック、eDiscovery、不正調査、規制対応、情報ガバナンス、データ保護領域での実務経験を有する。現在は金融業界を中心に、PQC移行戦略、AI時代の...
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