本物と変わらないもの
仮想化を表現する場合、「あたかも有るかのように」という表現がよく使われる。日本では仮に想うという文字表現が浸透してしまったため、人間の頭の中にある想像の世界で想定した事柄をさすように考えられているが、英語の“Virtual”という言葉には「実質上の、事実上の、実際(上)の」というような意味がある。つまり本質的には本物と変わらないもの、本物と同等と言えるものがそこにあるという意味なのだ。
仮想と論理
仮想化に類似した言葉で「論理化」という表現がある。ストレージの世界では仮想ディスクと論理ディスクというような表現で利用される。この両者は非常に混同されやすいものだ。どうも言葉に対する統一的な共通認識は存在しておらず、誰かが仮想と言ったら仮想になり、論理と言ったら論理になるというような風潮がある。
例えばホスト系のディスク装置は「CKD方式」と呼ばれるディスク装置をアクセスするが、現在、CKD方式のHDDは世の中で製造されていない。HDDとしてはFBA方式のものしか存在しないのだ。しかしホスト系システムでは今でもCKD方式のディスクが使われている。これはストレージ制御装置がFBA方式のHDDをCKD方式のディスクに見せかけているのだ。この状態は立派に仮想化していると言えるのだが、世の中は不思議なものでこれを仮想化であると主張するメーカーはほぼ皆無である。
仮想化と論理化は言葉として明らかに異なるものなので、必ず違いがあるはずだ。筆者の考えでは仮想もしくは論理と呼ばれるべきAが存在した場合、それを構成する実態がAと同じものの組み合わせで成り立っている場合を論理化と呼び、A以外のものも混ざっている場合は、もしくは完全にA以外のもので構成されている場合を仮想化と呼ぶのがふさわしいであろう。
例を挙げると、OSが使う主記憶メモリーをより大きく使わせられる仮想記憶装置(仮想主記憶メモリー)は、その実態として半導体メモリーとディスク装置の組み合わせで構成されている。また、仮想テープ装置と呼ばれる製品は、ユーザーに対して装置自身をテープと見せかけてはいるが、実際にはディスク、もしくはディスク+テープで構成されている。これらは見せかけるものと、構成するものが全く同じではないという意味で仮想化の例として非常にわかりやすい実装形態だ。
これに対して論理と称される例として、「LPAR(Logical Partitioning:エル・パー:サーバーの区画による論理分割)」が挙げられる。これは1つの物理的なサーバーをフランス・パンやカステラを切るように1切れごとに分け、この1切れを1つのサーバーのように使わせる機能だ。このほかにも「LVM(Logical Volume Manager)」というものがあり、これは1つのディスクをパイナップルの缶詰のように輪切りにし、1切れを1つのディスクに見せるものだ、カステラもパイナップルも縦に切ろうが横に切ろうがサイズが大きかったり小さかったりするだけなので、本質的な構成要素としては何も変わったり混ざったりしていない。このような形態が論理化なのだ。
二八蕎麦は「仮想蕎麦」?
良い例なのかどうかは判らないが、ここに日本酒の1升ビンがあり、そのビンの中に有名な銘柄の日本酒が5合(1升の半分)入っていたとしよう。これをコップに分けて飲むと5杯しか飲めない。これは論理化の操作である。しかし半分しか入っていないビンに、あと半分別の安い日本酒を足して合計1升にし、これを10個コップに分けて1杯ずつ飲むのとすると、これは仮想化の操作となる。
日常社会でこんなことをお店がやると偽装問題に発展するが、コンピューターの世界ではメーカーはユーザーにきちんと説明して機能を提供しているので、仮想化を行ったからといって話がこじれることはない。また、論理化では5杯しか飲めなかった酒が、仮想化では10杯飲めるのであるから、味がそれほど変わらなければそれはそれでお得であると感じる方も多くいるだろう。
別の例で考えてみよう。蕎麦の場合、100%蕎麦粉で作られた十割蕎麦が本来の意味での蕎麦なのだが、これよりも少々つなぎとして小麦粉が混ざった二八蕎麦(2割が小麦粉、8割が蕎麦)のほうが、ボソボソしない分、筆者はうまいと感じてしまう。世間には筆者と同じ意見を持つ蕎麦通も数多く存在するようで、十割蕎麦より二八蕎麦のほうがうまいと言う意見はよく耳にする。これは純粋なものより混ぜ物を入れたほう、つまり論理化よりも仮想化したほうが良い結果になった例とも言える。
このように仮想化とは言葉は悪いがある種のいかさまをして、それを出された客が「本物と同等」と感じ、且つ「ちょっとお得」と感じられるようにする仕組みを提供するものだとも言える。