ベンチマークの仕事がより深い技術の習得につながった
大学は法学部と文系だったが、高校時代からプログラミングは趣味で行っており、それは大学に入ってからも独学で続けていた。そこで、そのスキルを活かし、まずはプログラミングのアルバイトを始めることにする。2000年に入った頃だった。
アルバイト先はベンチャー企業、まだインターネットに従量課金で接続する時代、株取引は電話で行うのが常識のころに、リアルタイムでパソコン上で株価を確認し、ネット上で株の取引できる時代が来ると信じていた。そこで、ネット取引用のWindowsクライアント・アプリケーションの開発に従事。ソフトウェアはいいものが完成したが、2000年ころから2001年終わりまでは、日経平均が2万円台から米国9・11のテロなどを経て8000円台まで下がり続けるという株式大不況の時代。誰もネットで株取引するという状況ではなく、このソフトウェアは日の目を見ることはなかった。
「2003年ころのネットでの株取引ブームが来るまで持ちこたえれば、世界も変わっていたのですが」(中村さん)
そこから、就職活動をすることになった。希望したのはIT系の企業、就職したのは日本オラクルだった。たまたま友人に誘われ同行した説明会で関心を持ち、応募することに。結果的には高い競争率を勝ち抜いたのだ。
日本オラクルでは、まず金融営業部隊のエンジニアとして仕事をすることになる。この配属は、かつて株取引のソフトウェアを開発していたからではなく偶然だったとのこと。時代は、ちょうどOracle9iが登場し、Real Application Clustersに注目が集まり始めたころ。なので「当時は、RACを売るのがメインのミッションでした」と中村さんは振り返る。ちょうど金融業界ではコスト削減でLinuxのコモディティサーバーを活用する動きが出始めたこともあり、「RACの読み込み、書き込み双方での拡張性の高さや、信頼性の高さが顧客からは評価されました」と中村さん。いまでも「RACの仕組みには、素晴らしいものがあると思っています」と言う。
金融の営業部隊に2年所属し、次に異動したのがデータベース製品の技術部隊。ここでの経験により、Oracle Databaseの深い知識とスキルを身に付けることになる。RAC機能の検証などにも引き続き関わっていたが、おもな担当はベンチマークだった。「顧客にOracle Databaseを使ってもらうには、その性能を実証する必要がありました。他のデータベースとの比較を行い、ベンチマークで性能をさらに出すために、米国本社にも赴き開発部隊に直接レポートを上げるといったことも行いました」と中村さん。
このときの経験は、エンジニアとしてかなり貴重なものだったとのこと。このころに、米国本社でRACの開発を行っている日本人エンジニア小野孝太郎氏と出会う。彼は数多くいるOracle Database開発者の中でも極めて優秀な人で、いまも中村さんにとっては憧れのエンジニアの1人だ。
さらにベンチマーク系の仕事に携わってよかったのが、データベースだけでなくその上のミドルウェアやアプリケーションにも関われたことだ。それらに触れたことでJavaにも馴染み、アプリケーションのことも理解できた。経験の幅が広がったことが、後の転職にも優位となる。
2006年には日本オラクル内に「Oracle Grid Center」ができ、その立ち上げから関わった。これは、OracleがSun Microsystemsを買収する前のこと。国内外のハードウェアベンダーにハイエンドマシンを提供してもらい、RACを活用する大規模な検証環境を構築したのだ。「データセンターに各社のモンスターマシンを設置するところから携わりました。これは大きな経験になりました」と中村さん。Grid Centerは米国本社からも注目された。なので、米国にいた小野さんがリモートでこの環境にアクセスし、大規模環境でしか発生しないバグの検証をするといったことの、サポートもした。
このときに、さまざまな物理サーバーに触れることができたのは貴重だったと中村さんは言う。
「いまのエンジニアは、ある意味不幸かもしれません。クラウドが流行ってしまい、すぐにAmazon EC2だAzureだということになります。そうすると、ハードウェアに直接触る機会がない。これは、ビジネス的にはいいかもしれませんが、エンジニアにとってはメモリやディスクI/Oやネットワークのコアな動きが直感的にイメージしにくくなっていると思います」(中村さん)
そういう思いもあるので、CyberZではクラウドも使うけれど物理サーバーも活用している。「ハードウェアを直接触って自分たちの手で行うことにも、こだわりを持ってやっています」と中村さん。