プログラマーの誕生
プログラムのロジックとして計算を実現する。バッベッジの歯車とギア計算機より高速であることは確かなのだが、それを実現するためにはプログラムを書かなければならなかった。そのため多項式を理解し2進法を使った計算ロジックが解るプログラマーが必要となった。これは現在で言えば「組み込み式プログラム」の範疇だ。そして機械語で計算ロジックを書く仕事はというと「関数電卓のファンクションを作るプロセス」と同じぐらい難しい。アセンブリ言語の様な高級言語(?)もない時代だ。
ちなみに、2進法の原型はドイツ人ライプニッツが、これより250年前にメモを残している。
男はハード。女はソフト。
真空管はコモンパーツのラジオ用を使った。それでビットを表すわけだから大量に消費される。真空管に置き換わるトランジスタが発明されるのは数年後の話だ。ハードのメンテナンスと改良に男性陣は働き、女性陣がプログラマーとして働いた。
元来オトコは機械いじりが好きな動物だ。前回取りあげた計算手がそうであったように女性陣は緻密さ、忍耐強さ、そして相互依存関係で仕事をする名人だ。単純化した計算ロジックを緻密に組み上げて行った。
オープンシステム
ノイマンが仕事をしたプリンストン高等研究所の地下にあるマシン室の横にはマシンショップがあった。ラジオメーカのRCA社もこのプロジェクトに出資し参加していたので、おそらくショップ経営にも関わっていたであろう。このショップが結果的には強力なマーケッティングとなり、多くの派生が世界中で作られていった。代表的マシンには、アルゴンヌ国立研究所のAVIDAC、イリノイ大学のILLIAC、ランド研究所のJOHNNIAC、ロスアラモス科学研究所のMANIAC、オークリッジ国立研究所のORACLE(Oak Ridge Automatic Computer and Logical Engine)、アバディーン試射場のORDVACなどがある。
オープンシステム2
オープンシステムという単語がUnix RDBMS普及の合い言葉だった時代はそれから40年ぐらい後の話だ。メインフレーム(ホストコンピュータ)独占を打ち破る切り札がデータベースで、オープン・プラットフォームでブルジョワ支配を打ち破るという革命的な意味がオープンシステム化というバズワードには込められていた。Oracleはいわばその革命の旗手で、その立場上サーバ分野に進出してきたMicrosoft Windows NTもサポートしなければならなかった。その結果、安いWindows版Oracleを普及させ、NTサーバの普及の片棒を担ぐという皮肉なこととなった。
ちなみに、Windows NT(WNT)はDEC VMSの次という裏の意味があるらしい。アルファベット順で云うとVの次がWで、Mの次がN、そしてSの次がT。VMSの開発者デヴィッド・カトラーがMSに引き抜かれWindows NTの開発は始まったのだから本当の話であろう。『闘うプログラマー』の中ではその開発過程を「死の行進」と呼びスリリングなドキュメンタリーで描いている。カトラーは気に入らない仕事をすると壁を蹴り上げて穴を開けたらしい。
そして今、かつての革命の旗手が「クローズドシステムを提唱している」と先日のdb tech showcase東京に来ていたTom Kyteに聞いてみたところ、こう返ってきた:
“Intel IA ServerをベースにLinuxで提供しているのは考えられる一番のOpenプラットフォームだよね。それに他のプラットフォームだって選べるんだから全然Closedじゃない。”時代は流れ、今は「オープンシステムへのダウンサイジング」などというコンサバなメッセージはもう耳にしない。「レガシーからのマイグレーション」というアグレッシブな世界での、それも正解のひとつなのかもしれない。
フォンノイマン
ユダヤ系ハンガリー人(後にアメリカに帰化)であるノイマンは1930年にプリンストンに来ている。現在広く浸透しているノイマン式コンピュータとはアランチューリングのアイデアprogram-as-dataの「プログラムもデータも同じようにメモリで持つープログラム内蔵方式ー」ということになっている。そしてノイマン自身も彼より9歳若いチューリングの概念マシンのシンパだった。だったら何故ノイマンの名前がついているのかはよく分からない。10進で持つべきか2進で持つべきか?という議論に具体的な形で結論を出したのがノイマン式の出発点。と言ってしまうと…、実は2進方式は、リレー式計算機だけど、ベル研究所の方が先だ。それでも、やっぱりノイマンはそれをオープンな汎用機としてのコンピュータのタネとして後続の研究につなげたのだから、一番の功績者ではないだろうか?
この天才は全てのデータが0と1で保持されている現在のデジタル社会まで想像できていたのだろうか?仮にもし彼が「単に記憶素子のON/OFF属性でコンピュータを設計しただけ」と軽薄に答えたとしても、現在の我々の周りのコンピュータ全てが「その方式」になっていて、その推進者がフォンノイマンなのだ…
…と、言い切れないところもある。実はENIAC開発者がEDVACレポートは単にフォンノイマンが皆の議論をまとめただけで「アイデアの特許権」を後で主張した…と。自分たちはENIACを血の滲むような努力で作り上げた。後から来たノイマンは、そのノウハウを利用した上でレポートにまとめただけだ。という身につまされる切実な訴えだ。しかしノイマンはそれで大金を得たわけじゃない。当時のノイマンはランド研究所に200ドルの当時としても平均的な月給で雇われていた。ランド研究所の正式名はRAND Corporationで、空軍のシンクタンクとして委託研究を生業とした。実際は空軍に限定されてはいなかったのだが、核弾頭ミサイルや爆撃機の開発など、来るべき戦争に備え、空軍が一番重要なポストにあったため、結果として空軍御用達の研究所になっていった。そんな中、あるランドの重鎮(軍関係の数学者)がノイマンのレポートを勝手に広め有名にしてしまった。
ランドの頭脳たちの多くはソ連との核戦争は避けられないと本気で考えていた。事実、日本への原爆投下の4年後にソ連は最初の核実験を成功させている。そんなランド研究所にノイマンがスカウトされた時の逸話が残っている。
“あなたのランドへの義務は毎日髭を剃っている時の思考だけで良い。それ以上でもそれ以下でもない。”
数学者として尊敬され、7ヶ国語を流暢に操り、おまけにプログラマーとしての腕もあるノイマン。後にランドの正式な職員として軍事コンサルタントに転身している。「世界平和を維持することは常に戦争に備えること」―そんなランドの心情の中で「ゲームの理論」を発表し、戦争一般理論として当時の多くのランダイト(ランドの研究者の呼び名)に影響を与えた。原爆を手にしたソ連が東欧に進出する中での緊張状況を支え、持ちこたえさせたのは「ゲームの理論」の信望者たちのズバ抜けた分析能力だったのかもしれない。