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004 エドガー・コッドの「リレーショナル・データ・モデル論」


 今回の連載で取り上げたい、もうひとつのレポートはエドガー・コッドの「A Relational Model of Data for Large Shared Data Banks」です。なんとなくスッと入ってこないタイトルなので、ここでは「リレーショナル・データ・モデル論」と呼ぶことにします。

 エドガー・コッド Edgar Frank "Ted" Codd, 1923-2003

 このレポートが書かれたのは1970年でコッド47歳の時です。その当時のハードウェアは真空管からトランジスタへと進化していました。そして、ノイマン式であるためのStored Program方式が、プリンストンIASチームではなく、先にイギリスのEDSACチームに実現されてしまった原因となった、メモリーを実装するための工学的な混迷の時代、一種の「足踏み状態」から抜け出し、飛躍的に発展を始めた時期でもあります。

 とはいえ、1970年当時のメモリーが高価で有限である状況は現在の我々の想像をはるかに超えています。その後に現れるページング管理による仮想メモリも実現していない時代です。そんな時代にリレーショナル・データベースを実現するなんて、工学的な見地から見れば「仮説」としか映らなかったのではないでしょうか。

 この構図は、僕の頭のモヤモヤが晴れない「ノイマン型」と呼ばれるまでのストーリーに通じます。工学的にコンピュータを実現させたエッカートと論文だけの数学者の間で生じてくる確執。次第にプロジェクトが分裂していったのが前回までの話でした。フォンノイマンの場合は大数学者というマタイ効果で技術者たちの方が去ったのですが、コッドの場合は残念ながら彼自身の孤立でした。でも、そのおかげ(?)と言ったら少し変ですが、このレポートが公表され、その後のRDBMSベンダーの種になったのです。

 そして、結局、数年後には……この中の「コッドの定義」をめぐってデータベースベンダーが○×表で競い合うほどの影響力を持つようになります。そして、皆がコッド博士をRDBの父と呼ぶようになりました。

 http://www.seas.upenn.edu/~zives/03f/cis550/codd.pdf 

 http://www.seas.upenn.edu/~zives/03f/cis550/codd.pdf 

 ちなみに仮想メモリーOSとして、1975年、華々しくデビューしたのがDECのVAX/VMSです。VMSはVirtual Memory Systemの略です。

 そして、もうひとつ、ついでに……DECの創設者ケン・オルセンは連載第一回目で取り上げた世界初のコンピュータ・グラフィックを描いたWhirlwind開発のメンバーでした。フォンノイマンがEDVAC開発の資金提供をロックフェラー財団に掛け合って負けたMITのプロジェクトがWhirlwindです。

 そして、IBMに挑んだケン・オルセンの口癖は:

 "良いものを作れば営業はいらない!"

 だったそうです。明らかに業界を揶揄した言葉ですね。そしてDECは本当に技術者の立場が強い会社だったのです。

メモリーの変遷

 2015年DDR4への移行が始まる年。ハイエンドサーバーもすぐにDDR4に移行できるのか?

 今更、昔のメモリーについて詳しくなっても何も得ることはありませんから、時代はふっ飛びます。

 インメモリDBを使うために、現在ではDDR3のLR-DIMMタイプが必要となります。エンタープライズレベル・サーバーでスピードを出すためには、安いR-DIMMではダメです。それを大容量積むためには 1枚あたり32GBのモジュールが必要となります。 そのモジュールを構成するDRAMチップは一般的には 2Gb DRAM 144個を使用しますが、そのままだとDIMM基盤に収まらないため、シリコンダイを積層させ大容量化を図っています。2枚のシリコンダイを積層した製品をDDP(Dual-die Package)、4枚のシリコンダイを積層した製品をQDP(Quad-die Package) と呼びます。2Gb QDP DRAM または 4Gb DDP DRAM 36個を表と裏にびっしり装着して32GBの大容量を実現しています。

2Gb/4Gb DRAMのシェア

 一番初めにこのDRAMをサンプル出荷したのは日本企業のエルピーダ・メモリーだったのだが…

 2014年は Samsung 40% Hynix 27% Micron 25.5% くらいです。LR-DIMM単体のシェアはわかりませんが Micronも LR-DIMMを作っています。

 http://www.statista.com/statistics/271726/global-market-shareheld-by-dram-chip-vendors-since-2010/

 メモリー業界ではMajor on MajorとかMajor on 3rdなどという呼び方があります。メジャーメーカのDRAMを使ってサードベンダーがマウントするケースをMajor on 3rdと呼びます。2Gb LR-DIMMを単体で市場に流しているメーカはSK-Hynixだけなので、サーバー市場に限るとSamsung製Major on 3rdは存在しません。そしてSK-Hynixは2Gb DRAMをどんどん安くして、せっせと市場に出しているので、本来であれば16GBパッケージで妥協していた案件にも32GBパッケージが気前よく使える時代になってきました。それにつられてSamsung製のMajor on Majorも安くなり続けています。(Micronは今のところOEMに徹しているようです。)また、64GBのLR-DIMMも、まだまだ高額だけど、出てきました。1枚100万円程度です。

 富士通 メモリ-64GB(64GB 1333 LV-LRDIMM×1) PY-ME64DA4

 とはいえ、32GBのLR-DIMMをマウントする根性のあるサードベンダーは、非常に稀です。。

DRAM市場の歴史

 DRAM市場は昔から供給過剰と価格暴落を繰り返してきました。そんな中、1985年ごろ、Micronが日本製DRAMをダンピング販売で提訴したことがきっかけとなり、強引に日米半導体協定が交わされました。その中には、最低価格がアメリカ主導で決められる!外国製半導体も購入しなければならない!などという、僕のような部外者でも不条理に憤慨する事項まであったそうです。そして、それが日本のDRAM事業の黄金期を衰退に追い込んだきっかけだったのではないでしょうか?

 そんなMicronが、こんどはエルピーダ救済の手を差し伸べたのです。Samsungに技術者が流出するより良いのだけど……。そして、いよいよMicronに買われるという直前の2012年2月3日。Micronの社長が突然事故死してしまいます。ゴルゴ13のようなスパイナーが雇われたんじゃないだろうか?実際は自分で操縦する小型飛行機が墜落したことで命を落としたらしい…です。結局、Micronのスティーブ・アップルトンCEOが提示した2000億円の出資という資本提携の話は流れ、エルピーダは倒産し、その後の買収という形でMicronに有利、エルピーダの株主、日本政策投資銀行、エルピーダに融資をしていた銀行がより不利な形で、エルピーダはMicronの傘下に入ることになってしまいました。10月10日に発表されたMicronの決算によると、Micronは、早くもエルピーダ買収により、14.8億ドルの利益を上げたことが明らかになりました。(アダム・スミス2世の経済解説より)

 NEC、日立が長年苦労して切り開いてきたDRAM市場。その後、エルピーダ・メモリーに事業を統合し世界と戦ったけれど、異常な円高で不利な立場の中で、突然現れた、ロビー活動に長けたアメリカのベンチャーにあっさり持って行かれてしまったのです。

 そんなベンチャーを率いた、アップルトン氏は高級小型飛行機を20台所有するまでの大富豪になったのだけど、最後はその飛行機で死なはった(「死なはった」は大阪弁で「亡くなった」の丁寧表現です)。ちなみに、第二次世界大戦中、イギリス空軍のパイロットだったコッドも飛行機の操縦が趣味だったそうです。

スパコンの出現

 話は遡り、1962年。コッド39歳。

 IBM Stretchが出荷されます。ノイマンがコンサルとして関わっていたIBMメインフレームの流れを汲む次世代スパコンに位置ずけられるマシンです。Planning A Computer Systemという冊子の中央を横切る紙テープらしき物の上と下をよく見ると”Project Stretch”と書かれています。このプロジェクトにはMANIAC開発解散後の精鋭や後に富士通が舵を切ったIBM(メインフレーム)コンパチ路線の祖となるジーン・アムダールもいました。

 ここにはコッドの書いた第13章Multiprograming編があります。そしてエーリヒ・ブロッホ(Erich Bloch:カタカナ表記がこれでいいのか分からない)の書いた14章のCPU編では、この時から20年以上経って実現されたRISC ProcessorのCPUパイプラインのアイデアがあります。コッド章とブロッホ章がソフト編とハード編でコンビネーションを成しています。裏を返すとStretchの実態を書き下ろした冊子ではないということですね?「コンセプトのooo」の原点かもしれません。

トランジスタのCPU

 これがこの冊子の中に出てくるCPUの写真です。トランジスタが真空管に置き換わっています。

 で、CPUは?

 先の基盤はパッケージと呼ばれるCPUを構成するボードです。これをたくさん挿したのがCentral Processing Unit(中央制御装置)です。

 この時代に育った人達が今のプロセッサーを語るときに”トランジスタxx個分”なんて古臭い言い方をしたりします。そして、これだけの基盤のメンテをするのに「大量のフィールド・エンジニアが必要だった」という時代背景も想像できますね。この規模のマシンを組み立てたり、客先に納入するために、またバラしたり。そして、またテストをする。そんな時代のエンジニアは3交代で働いていたそうです。

追記

 今、時間を見てノイマンのEDVACレポートを翻訳しています。そして、次はコッドの「リレーショナル・データ・モデル論」を翻訳しようっと。

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この記事の著者

小幡一郎(オバタイチロウ)

DBOnline特命記者 ユーザ企業としてPCやオフコンからコンピュータキャリアはスタートし、メインフレーム・パッケージベンダーそして日本オラクルを経て1995年インサイトテクノロジーを設立。2007年、インサイトテクノロジーから離れ、デンマークのMiracleグループに参加、ミラクル・アジアパシフ...

※プロフィールは、執筆時点、または直近の記事の寄稿時点での内容です

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