手を動かしながら考える
一人でじっと考えたり、会議室で議論するだけでは良いアイデアはなかなか生まれません。それよりも、手を動かしながら考える――簡単な絵を描いたり、手近な具材で工作したりする――ほうが発想を飛躍させることができます。
そして、それらのアイデアはなるべく早い段階からユーザに提示して、彼らからのフィードバックを反映させ、これを繰り返しながらユーザエクスペリエンス(UX)の質を高めていきます。このような「評価と改善の繰り返し(反復デザイン)」こそが UCD (ユーザ中心設計)の中核です。
そこで重要な役割を果たすのが『プロトタイプ』です。プロトタイプは一般的には「試作品」と訳されますが、UCD におけるプロトタイプの役割は"試作"というイメージとはかなり異なるものです。
ミニチュア模型の効用
たとえ話として家を建てる場面を考えてみましょう。敷地に山積みになったレンガ・木材・コクリートといった資材が、大工さんなどの建築技術者の手によって加工されて組み上げられ、まず家の"骨組み"が出来上がります。さらに屋根や壁が施工され、最後に内装や電気工事を施して家は完成します。
当然ながら、工事を始める前に建築家が設計図を描いています。そして、詳細な設計図を描き始める前に、建築家は厚紙やスチレンボードを使ってミニチュア模型を作ることがあります。このような"建築模型"は設計の妥当性を検証するとともに、クライアント(施主)からさらに具体的な要望を引き出すために用いられます。
建築模型を作るメリットは、設計の間違いやクライアントの新たな要望に柔軟に対応できることです。もし、工事を始めてから設計ミスが明らかになったり、クライアントがもう1部屋増やして欲しいと言い出したとしたら、費用も工期も予定を大幅に超過してしまうでしょう。そんなことが何度も繰り返されれば、その家は完成しないかもしれません。
プロトタイプとは家の"骨組み"ではなく"模型"に相当するものです。つまり製品開発の中間成果ではなく、事前に試行錯誤するための実験材料です。家であってもソフトウェアであっても、本格的に"工事"が始まってから根本的な問題が見つかったのでは、もはや手遅れなのです。
紙製のソフトウェア
よくある過ちは、見た目が立派なプロトタイプを作ろうとすることです。開発者の本分は「完璧を目指す」ことなので、プロトタイプであっても一生懸命に作り込んでしまいがちです。ところが、完成度の高い画面を見せられると、ユーザは画面の色やフォントの種類、アイコンやロゴ、画像のクオリティなどビジュアル(表層)ばかりに気をとられてしまい、根本的な問題を見逃してしまいがちです。
プロトタイプでは「今、議論すべき課題」以外にユーザの目が向かないような工夫が必要です。そのために、敢えて見た目の品質を下げることがあります。例えば、色は白黒で、画像やアイコンは省略して、ロゴは「ロゴ」と書いた四角形を描くだけにとどめるのです。
このような、いわばダーティなプロトタイプは Excel や PowerPoint といったビジネス用アプリケーションで手軽に作成できます。また、Expression Blend SketchFlow や Balsamiq Mockups といったプロトタイプ専用ツールでは、あえて"手書き風"の画面が作成できるようになっています。
ただ、もっと手軽な方法があります。それは"紙"を使うこと――『ペーパープロトタイピング』――です。ペーパープロトタイプはすべてを手書きしてもかまいませんが、画面ショットをプリントアウトしたり、ボタンやドロップダウンリストなど画面要素のシールを用意したりすれば、もっと効率よく制作できます。(海外では専用のツールキットも販売されています。)
手動のソフトウェア
"紙製"であっても、ちょっとした芝居心とユーモアを発揮すればユーザに"試用"してもらうことも可能です。
ユーザには紙面上のボタンを"指"でクリックしてもらい、入力フィールドには"鉛筆"で入力してもらいます。そして、その動作に合わせて"手動"で次の画面を提示したり、画面の状態を変更するのです。もし、警告音が発生する場面ならば、口頭で「ブー」などとユーザに教えてあげます。
最初は、こんな"子供だまし"のようなことをやって、それで妥当なフィードバックが得られるのかと疑問を感じるかもしれません。
しかし、段ボール箱で作った自動販売機でも、人間が中に入れば商品を"販売"できます。また、音声認識システムの代わりに(こっそり裏で)人間が音声コマンドを聞きとってシステムに入力を行えば、ユーザは自分の声で操作できているように錯覚します。
同じように、たとえ紙製であっても、操作に対して(それなりに)適切な反応が返ってくれば、ユーザは真剣に"ソフトウェア"を使用するようになって、メニューの選択に迷ったり、操作を失敗したり、必要な機能がないと不満を表明したりするのです。
私たちは普段「IT=デジタル」と思い込みがちですが、少し想像力を働かせれば、アナログでも、たいていのことはシミュレーションできるものなのです。