デスマ博士のデスマ塔からデスマのマーチが聞こえてくるよ
デスマといえば、そう、デスマーチ。
納期まぢかの呪われた開発プロジェクトが、
たくさんの負のミラクルにくるくると翻弄されて
いつまでたっても納品にこぎつけることが出来ぬまま
スブラキ肉を削ぐように社員たちの体力を削ってゆき、
ときに正真正銘の死人を例の川の向こうに納品してしまう
ことすらあるという、ありふれて恐ろしいディザスターです。
デスマといえば、そう、デスママを忘れてはいけません。
デスママとは、プロジェクトがデスマ化する時にかならず
現われる、社員行きつけの飲み屋のママのことです。
どのようにしてか、彼女らはデスマの気配を敏感に察知し、
死人の出る前に飲み屋のツケを回収しようと、
(ときには複数で編隊を組んで)社内にのりこんでくるのです。
デスママが現われることがデスマの発生条件であるともいえ、
いわばプロジェクトにとっての死亡フラグである彼女らは
実際に頭に旗をたてていることが多いのですが、
しかしそれを指摘すると「そんなものは無い」とかたくなに
認めようとしないため、旗はデスマに瀕した社員たちの
見る幻なのではないかと考える向きもあります。
旗には黒いドクロのマークが描かれていると言われます。
デスマといえば、そう、ですます調で話す社員から先に
倒れてゆくという迷信がなぜか昔からつよく信じられており、
デスマに突入したプロジェクトにかかわる社員たちは
上司に失礼でない範囲でですます調を脱するべく、
いろんな語尾を考案するのだといいます。
「○○でござる」「○○だにゅん」「○○でゴロロロロロロロ」
最後のは単に喉に痰がからんだ音だそうですが、
もちろんこれらの珍妙な語尾が全員の精神的消耗を誘い、
「もうだめです」というふつうの言葉を残して、次々と
社員たちは斃れてゆくのだといいます。
デスマといえば、そう、デス麻雀の略でもあります。
麻雀がときに深刻にデスの要素を帯びる遊戯であることは
よく知られていますが、ここでいうデス麻雀は、あまり
人間の死とは関係のないものです。
デス麻雀は、麻雀のデスマスクなのです。
徹夜マージャンの果てについに全員が意識を失った時点での
卓上の牌の散乱状態を石膏で型取りし、日付時刻をそえて
ギャラリーに展示したというものです。
芸術って、すばらしいですね。
デスマといえば、そう、「デカン高原でスケートボードに
乗ったひとりの男がマンドリンで殴り殺される」という
一部で有名な長編小説のタイトルの略称でもありますね。
物語は、殺人の一部始終を目撃していたスケートボードによって
語られるという、ありふれたひねりを与えられています。
打撃のインパクトで粉々に砕け散ったマンドリルの破片を
あびたことによって超自然的な力を得たスケートボードは、
生まれ変わったらどんな絵をもったボードになりたいか、
延々と語り続けることを作者によって許されます。
かたわらで、殴り殺された男は一言も発さず横たわり続けます。
しかし、彼の着ている上着には英字新聞が全面にプリント
されていて、スケートボードが時折ここから単語をランダムに
読みあげると、それらが半分ほどは意味の通る文章となり、
読者に謎解きへの興味を提供しつづけながら、特になんの
結論にも至らず、しだいに支離滅裂になってゆくのです。
物語の終盤、喋りに疲れたスケートボードは、風の後押しを
うけて、ゆるやかな下り坂をしずかに滑りはじめます。
たくさんの牛を追い越し、ときにその背中を乗り越えて、
ボードはどんどんスピードをあげてゆきます。
ついにボードはあるビルの窓に飛び込み、室内で唸りを上げていた
サーバラックに突き刺さって、壮絶な火花をあげて炎上し、
ひとつのプロジェクトを頓挫に追い込みます。
最後の瞬間、超自然的な力によって、ボードは、自分が
息の根をとめたのが、遅延に遅延を繰り返していた、とある
大規模プロジェクトであったことを知るのです。
ここにおいて判明するのは、「インドにもデスマーチはある」という
想像上の事実です。
デスマーチは死そのものと同じようにありふれており、
どの国にも、死への行進を余儀なくされる社員たちがいるのでしょう。
川をわたるとき、彼らはお財布ケータイで渡し賃を払います。