渡米を機にHadoopに出会う
森下さんが渡米したのは2011年末。米国で暮らすようになり3年が過ぎた。非移民就労ビザ(H-1B)は3年間有効なので、話をうかがった2015年4月は期限が切れて再び就労ビザを申請しているところだという。4月21日に開催されたCassandra Summit Tokyo 2015ではコミッターとして登壇し、Apache Cassandraプロジェクトへの参加をうながしていた。
コミッターも海外在住もエンジニアとしては珍しい。どのようにここまで来たのか、生い立ちからおうかがいした。子ども時代はファミコンよりも先にパソコンを触ったという。父親の趣味で自宅にパソコンがあったそうだ。
加えて母親が国際交流に積極的で、自宅に外国人が滞在することもあった。あるとき、自宅に滞在していた外国人が父親のパソコンで簡単なゲームをプログラミングしてくれた。これがプログラミングのいい手本となった。プログラミングと国際的な感覚がとても若いうちから養われるという境遇にいたのだ。
大学では電気情報に進んだ。コンピューターや情報処理に近い分野ではあるものの、大学の授業は「理論が中心でした」。実践的な学習ができるのは海外だった。交換留学制度を利用して米国ウィスコンシン州の大学で学ぶ機会があったという。当時はJavaが出て間もない2000年ごろで、ワークステーションを用いてJavaのプログラミング経験を積むことができた。
当時はまだJavaスキル保有者は多くなかったため、Javaでプログラミングができる人材は貴重だった。そのスキルを生かし、学生のうちからIT系企業でアルバイトもした。就活はほとんどすることなくインターンを経て就職した。ほかのアルバイトと比べて高収入であり「ほかに就職するよりもIT企業のほうが有利」と分かっていたから、他の業界に進むことはあまり考えなかった。確かに、その必要はないだろう。
就職するとITコンサルタントやアーキテクトとして現場のシステム開発プロジェクトを数々経験した。森下さんはプロジェクトの合間に新しい技術の情報収集をしていた。情報収集は熱心なほうだった。加えて海外に行くことへの抵抗感が少なかったため、海外イベントに出向いて情報収集することも。2010年にはニューヨークで開催された「Hadoop World:NY 2010」に情報収集目的の出張として足を運んだ。
Hadoop Worldに出張するほど業務でHadoopを使う必要に迫られていたかというと、実はそうでもなかったという。「はやってきたので」と森下さんはさらっと言う。天性の勘のようなものなのだろうか。当時Hadoopに関心を持つ人はいたものの、ニューヨークまで足を運ぶなんて相当熱心だと思うのだが。
森下さんは興味があるとソースコードも調べる。ソースコードとなるとソフトウェアそのもののプログラムだ。興味があればインストールして実用性を確かめるところまでなら想像できるが、ソースコードという内部の仕組みまで確認するなんてかなり研究熱心といえないだろうか。
得た知識は社内で共有するだけではなく、エンジニア仲間とも共有するように心がけている。2010年4月にはITエンジニアの勉強会でCassandraについての仕組みを解説する役目を引き受けた。とはいえ、当時の森下さんはまだDataStaxに転職する前であり、Cassandraのコミッターでもなかった。ただCassandra wikiの翻訳には参加していた。このあたりから徐々にCassandraに近づいていった。
勉強会の資料を作る過程で、ふと小さな不具合に気づいた。ソースコードのバグだと気づいた森下さんはバグレポートを送信した。すると時差があるにも関わらず、即座に修正されたという。「ゲイリーが直してくれました」と森下さんは述懐する。これが、Cassandraコアメンバーとの記念すべき出会いだった。