数学ガールからDBガールへの華麗な(?)転身
「3人の子どもの母親」と「HiRDBのエキスパート技術者」という、普通なら両立し得ないと思われるミッション・インポッシブルを見事にこなしてきた山北さん。「子どもは放っておいても育ちますからね!」「決して、出来のいい技術者ではなかったんですよ!」。そう笑って穏やかに話すが、その足跡を追ってみると、やはりどこか「芯の通った強さ」のようなものを感じさせる。
大学では数学を専攻していたという山北さん。
「数学以外の勉強がからきしダメだったんです。姉も数学科を出ていて、叔母は数学の教師をしていたぐらいですから、きっと数学には強い家系なんでしょうね」
当時は数学科を出ると教師になるか、情報系の仕事に就くか、もしくは大学院に進学するぐらいしか進路の選択肢がなかった中で、山北さんが選んだのが情報系の仕事への就職。メーカーを志望し、日立と、もう1社の大手メーカーから面接の案内をもらった。明日までにどちらかに決めて、返事をしなければいけないというタイミングで、たまたまTVで目にした日立のCMに「ビビッ」と来たのだという。
「日立がスポンサーになっているクイズ番組『世界・ふしぎ発見!』をたまたま見ていたら、夜中に新幹線の車両を輸送しているCMが流れてたんです。これを見て『おお、日立ってすごい!』と思って、日立を受けることに決めました(笑)」
入社して配属されたのが、データベース製品の設計開発を担う「DB設計部」。日立のメインフレーム上で動作するデータベース製品「XDM/RD」の開発を担当することになった。日立に入社するまでデータベースはおろか、プログラミングの経験すらなかったという山北さん。当時はまだまだ、目の前の与えられた仕事をきちんとこなすだけで精一杯だったという。
「自分が担当するコンポーネントを高い品質で仕上げることは徹底的に叩き込まれましたが、当時はまだデータベース全体についてはあまり理解できていなかったと思います。XDM/RDは当時既に長い実績をがあり、安定した製品だったので、今思うとわりとのんびりした仕事ぶりだったと思います」
しかし、そんな平和な日々もそう長くは続かなかった……入社5年目に、HiRDBのマルチプラットフォーム対応のチームに異動となったのだ。当時、日立製のUNIX上でしか動作しなかったHiRDBを、他のUNIXやWindowsに対応させるべく、ポーティング作業を行うのが主なミッションだった。
しばらくの間、Windowsポーティングチームの一員として、UNIXとWindowsの挙動と格闘する日々が続いた。以前ののんびりとした生活から一転、ときには徹夜も厭わないハードな毎日……しかしそんな日々の中でも、不思議と殺伐とした雰囲気とは無縁だったという。
「当時一緒に仕事をしていたチームのメンバーは、皆穏やかでいい方たちばかりで、深夜まで作業が続いた場合でも、皆でわいわい言いながら和やかな雰囲気の中で仕事ができました。当時の大変な状況を無事乗り切れたのは、こうした周囲の方々に恵まれたおかげだと思っています」