ヤマハ発動機からホストコンピュータを無くすために奮闘
株式会社ラックでセキュリティ・エバンジェリストとして活動する原子拓さんは、教育者の両親に育てられた。文系の両親だったが、時代は高度経済成長期の「新幹線世代」。そんな時代を反映してかモノづくりに対する興味は強く、雑誌『ラジオの製作』を愛読し地元の電器屋に通い詰めるような少年だった。「プログラムを書いたノートを持って、店先のデモ機で打ち込んでそのプログラムを動かし、喜んでいるような子どもでした」と原子さんは当時を振り返る。
大学ではコンピュータ系を学びたいと考え、選んだのは数理科学専攻。大学時代後半にはちょうど「パソコン通信」が始まり、初めて通信、ネットワークの世界に触れることとなる。とはいえ世の中にはまだPCすら普及しておらず、周りにはワープロ専用機くらいしかなかった頃だ。
就職もやはりコンピュータネットワーク関連の仕事がしたいと考え、そこで目指したのは電機メーカー。中でも当時流行っていたVAN(Value-Added Network:付加価値通信網)に目を付け、日立グループの中のVANを扱う企業に就職する。「VANが華やかな頃で、インターネットが普及する前のことです」と原子氏。 配属されてすぐに、日立製作所の研究所で最新技術を学びそれを基にサービス開発をするようにとの業務命令が入る。日立のネットワーク研究部門に通い、そこでOSI参照モデルの世界を経験することになる。ここではTCP-IPに関わる研究に携わり、ネットワークプロトコルの中での高速処理の技術を学ぶ。
ちょうどその頃、日本の学術組織を結ぶ研究用コンピュータネットワーク「JUNET(Japan University NETwork)」が始まる。これはインターネットの始まりでもあり、日立の研究所をJUNETにつなぐプロジェクトにも原子さんは関わる。その後はVAN関連ではなくTCP-IPの相互運用性の確保や高速化の技術開発だった。
原子さんは、3年ほど新しいネットワークに関する研究者として仕事をした。しかし家庭の事情もあり、地元浜松に帰ることを決断する。コンピュータネットワーク関連の仕事ができることを条件に転職先を探し、入社したのがヤマハ発動機だった。ヤマハ発動機ではその頃、ITシステムのダウンサイジングを検討しており、そのためのUNIXのエンジニアを探していた。原子さんには、JUNETなどのインターネットの接続や、TCP-IP関連の開発業務でUNIXの経験があった。
「ヤマハ発動機からホストコンピュータが無くなるまでは、ここで働こうと思いました」(原子さん)
原子さん自身も、日立の研究所での経験などから今後インターネットの世界になればダウンサイジングは必須であり、そのためのOS環境はUNIXでネットワークはTCP-IPだと考えていた。そこで原子さんは主たる業務であるシステムのダウンサイジングの業務と並行し、インターネット関連の業務にも積極的に関わる。実際、ヤマハ発動機に入ってすぐにクラスBのIPアドレスとドメインの取得も行った。
ヤマハ発動機ではユーザー企業の情報システム部門のエンジニアとして、たくさんのことを経験する。オープン化するシステムにはSun MicrosystemsのUNIXマシンを採用し、データベースにはInformix(現在はIBM Informix)を導入した。クライアントサーバー型のアプリケーションのGUI開発では、統合開発環境のPowerBuilderを選んだ。「InformixとPowerBuilderでバイクの部品管理のシステムや生産管理のシステムを作り、グローバルに展開しました」と原子さん。 システムをグローバルに展開するためには、社内外を接続するネットワークの構築も重要だった。
「ヤマハ発動機では、1993年にインターネットに接続してIPリーチャブルになりました。国内企業の中では早いほうだったでしょう。このためにIIJに浜松NOC(Network Operation Center)を作ってもらいました」(原子さん)
企業のネットワークをインターネットにつなぐとなれば、当然ながらファイヤーウォールなどのセキュリティ対策もしなければならない。つまりヤマハ発動機でダウンサイジングを実践し、そのグローバル展開のためにネットワークを整備して、それらの実践の中でセキュリティ対策にも深く携わっていった。