1952年、EDVACは完成しました。それと同時にアカデミック・コンピュータの時代も終わりを告げます。
そしてアラン・チューリングも同じ頃42歳で自殺しています。いつもみすぼらしい身なりで「何をしているか分からない」と母親は嘆いていたそうです。暗号解析などの国家機密は誰にもしゃべることはできなかったからです。
ジョン・フォン・ノイマン(1903年12月28日 - 1957年2月8日)
アラン・チューリング(1912年6月23日 - 1954年6月7日)
プログラム内蔵型は当時の誰もが考えていた…
ペンシルバニア大学ムーア校のENIAC開発チームもStored Program方式が最善であることはわかっていた。しかし当時はメモリとして使えるテクノロジーなどなかったし、戦争需要で請け負ったコンピュータ開発に時間の余裕はなかった。そしてENIACは日本の降伏宣言の3ヶ月後、ノイマンも計算した爆縮で広島と長崎に原爆が投下された後に完成している。
Stored Program方式 ノイマン式?
アランチューリングはこれをProgram as Dataと記した。プログラムもコード数値としてデータと同じように扱う。そして、プログラムがデータと同様メモリに乗る。例えば、1+2+3+4+5を実行するプログラムがメモリ上にない場合は、1+2を計算し、1の入っていたスロットに結果を戻す。この場合スロットには3が入る。そして、次にそのスロットの内容と3が足され、また結果をスロットに戻す…。ここで平均を得るには…? Stored Program方式ならループカウンターで割れば良いのだが、そうでないとカウンターの格納用場所、出したり入れたりを繰り返すスロット、まで特別に用意しなければならなくなる。ENIACの開発者がこれを理解していないわけはなかった。
マンハッタン計画
1945年7月16日世界で初めて原爆実験を行ったのがロスアラモス研究所だ。前回紹介したように、そこでノイマンはIBMパンチカード計算機を使い爆縮の計算を繰返した。そこには、微分解析機の開発もされていたので、ノイマンは、それにも首を突っ込んだはずだ。
ちなみにロスアラモスには、のちに原爆の父と呼ばれるロバート・オッペンハイマーと、のちに水爆の父と呼ばれるエドワード・テラーもいた。オッペンハイマーとノイマンは、同じ時代にドイツの大学に留学している旧友だ。
ナチス・ドイツが先に核兵器を保有することを恐れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらが、1939年、同じ亡命ユダヤ人のアインシュタインの署名を借りてルーズベルト大統領に信書を送ったことがアメリカ政府の核開発への動きをうながす最初のものとなった。(マンハッタン計画 ウィキペディアより)
ノイマンよりひと回り上で、ノイマンと同じハンガリー系ユダヤ人のシラード、そして、さらにひと回り上のアインシュタイン。その影を追ってドイツ留学した若き二人のユダヤ人が、ついにアインシュタインのいるプリンストンにたどり着き、人生の目標を成し遂げた。とはいかなかった。そこから核開発に参加することになるのだ。
ロバート・オッペンハイマー(1904年4月22日 - 1967年2月18日)
レオ・シラード(1898年2月11日 ‒ 1964年5月30日)
アルベルト・アインシュタイン(1879年3月14日 - 1955年4月18日)
エドワード・テラー(1908年1月15日 - 2003年9月9日)