紙による商慣習こそがセキュリティ上問題
――そもそも法律で決められているわけではないのに、日本では企業も個人も皆が書類に印鑑を押す習慣を続けてきました。そもそも契約ではなぜ押印が必要なのでしょうか。契約でハンコを使う場合の問題点について専門家の立場からご指摘をいただけますか。
橘:電子署名というテクノロジーがなかった時代、契約書を紙で交わすことは当然の選択肢でした。日本社会にサインが定着しなかったのは、欧米で使われるアルファベットに比べて漢字だったからともいわれ、ハンコの普及が始まった明治時代の事情も関係していて、当時の識字率は50%を切っていました。ハンコは押すだけでいい分、当時は最も合理的な選択肢だったわけです。
ところが時代が進むにつれて、不都合も出てきました。例えば、上司が出張に出かけてしまうと、決済トレイに書類が溜まって、処理が遅れてしまうのはよくあることです。加えて、郵送にも時間がかかります。もっと問題なのはセキュリティですね。ハンコはアクセスや使い方が容易なので誰が押したかがわからない。偽造リスクも加味すると、セキュリティの脆弱性の問題も生じる。電子契約サービスは合理性と安全性という2つの理由で普及が進んでいます。
とはいえ、本人認証の手段としてハンコが全てなくなってしまうと、使い慣れている方々やITへの切替にハードルを感じる方々など、困ってしまう人たちも出てきます。ですから私たちは契約の手段において、選択肢を提供することが重要だと考えています。
――多額な金額をやり取りする契約にはハンコがあってもいいと思いますから、電子契約が選択肢の一つであることは大事ですね。その意味で、ハンコが残る場合の例をもう少し詳しく教えてください。
橘:デジタルデバイドと言われるように、デジタル環境にアクセスできない方が契約するにはサインかハンコが必要です。今もクレジットカード決済はサインですし、宅配便の受け取りではハンコかサインですよね。サインが合理的ならサインでいいのです。空港では顔認証も実用化されていますし、時代によって何が本人認証として優れているかを考えるべきです。
今では決して遅れてはいない日本の電子契約
――国内でも契約の電子化を推奨する法律は以前からあったと思います。電子契約と既存の法律の関係について教えてください。
橘:日本の民法では、契約は原則として当事者の合意のみで成立します。FAXの受発注は昔からありましたし、メールでの契約を結ばない依頼を交わすことは今もよくあります。お互いに合意していれば契約は成立するというのが民法の基本的な考え方です。民法よりも影響しているのが印紙税法です。印紙税法で定められた課税文書には印紙税が課税されますが、FAXは昔から対象外ですし、メールも電子契約も課税されません。
――極端な話、口約束でも契約は成立するわけですが、なぜ書類にハンコを押さないといけないのでしょうか。
橘:「言った」「言わない」の問題を避けるため。つまり証拠として残すためです。クラウドサインの場合、電子署名を暗号化して改竄を防止していますし、いつ同意したかについては認定タイムスタンプを付与しています。これに対して、紙の場合はどうか。例えば、台風で書庫が水没したらどうしますか。書類自体がなくなったらどうしますか。営業担当者の机の引き出しに眠っているだけかもしれませんが、紙には常になくしてしまうリスクがあります。
今は重要な契約ほど紙とハンコ、カジュアルな契約は電子契約と考えられがちですが、私たちはこれが同等の選択肢になるべきだと考えています。
――日本でこれまで電子契約が進まなかったのはどんな問題点があるためでしょうか。
橘:弁護士ドットコムがクラウドサインをリリースしたのは2015年10月。2020年3月末時点の導入社数は75,480社になります。4月月次の導入企業数は6,544社ですから、約5年で8万社以上にまで普及したわけです。「日本はハンコ社会」と言われるものの、この国が決して遅れているとは思いません。クラウドサイン以前は、課題を解決するためのソリューションがなかっただけで、当時はハンコという手段が課題解決に最も合理的だったにすぎません。今後は、郵送での契約はより難しくなるでしょうから、より電子化のトレンドが加速すると思います。