悪妻に悩まされた政治家
悪妻に悩まされた政治家もいる。日露戦争後のポーツマス条約締結に全権大使として臨み、外務大臣も歴任した小村寿太郎は、妻の町子に手を焼いた。
町子は、当時の女子としては珍しく明治女学校を出た才女で、類稀なる美貌の持ち主だった。小村は、そんな町子に一目惚れし結婚。ところが彼女は裁縫も料理もできない。実家からの仕送りで女中を雇い家事の全てを任せ、叱るとヒステリックになって泣き叫び、物を投げ、実家に帰る。
子供が生まれても一向に生活態度は変らず、しばしば子供を女中に託して芝居見物に出掛けていた。夜が遅い小村は、毎晩のように1人冷や飯を掻き込んでいたという。
「平民宰相」で知られる原敬も、最初の妻には恵まれなかった。1883年12月、当時、27歳の原は、滋賀県知事、京都府知事、貴族院議員として名を馳せた中井弘の長女の貞子を妻に迎えた。
貞子は14歳。家事はもちろん、1人では身支度もできない。髪を結う時も原が手伝った。もともと病弱だった貞子は、次第に精神異常を来し、最後は離婚。しかし原は、貞子が生涯食べていけるだけの慰謝料を支払った。
戦前から半世紀余り衆院議員を務めた元首相の三木武夫は恐妻家で知られた。妻の睦子は森コンツェルン創始者の森矗昶の娘で、武夫は徳島県の農家。言わば逆玉の輿で、「クリーン三木」、「議会の子」と言われた三木も、家庭では睦子に頭が上がらなかったという。