米投資ファンド大手のSilver Lakeが、クラウド人事・財務管理大手Workdayの買収を視野に入れた協議を進めていると報じられた。買収前の株価に上乗せするプレミアムを織り込んだ場合、取引規模は600億ドル(約9兆円以上)に達するとの観測もある。仮にこの規模で実現すれば、ソフトウェア業界で過去最大級のディールとなる可能性がある。生成AIの急速な普及にともない、株式市場ではソフトウェア企業に「生成AIを織り込んだ新しい成長ストーリー」が求められ、従来型SaaSに対する評価は厳しさを増している。その影響もあり、Workdayの株価は伸び悩みが指摘されていた。そこに投資機会を見いだしたとみられるSilver Lakeの再成長シナリオと、事業運営の現実や企業文化との間には、ギャップが存在するのではないか。その金融ロジックは一見合理的に見えるものの、ソフトウェア企業の価値は財務指標だけでは測れないからだ。AI時代の競争力を支える人材、製品開発の継続性、顧客、パートナーを含むエコシステム、そして「Workday Way」として知られる企業文化を、買収後も損なわずに維持できるのか。本稿では、この大型買収を金融・事業の双方から一考する。
「Dellの成功体験」という危うい前提
Silver Lakeの大型案件として、まず想起されるのが「Dell Technologies(以下、Dell)の非公開化」と、その後の事業変革だ。Workdayへの買収提案を読み解く上でも、Dellで成功した、非公開化後の変革モデルをWorkdayにどこまで当てはめられるのかが重要な論点となる。
2013年、Silver Lakeは創業者マイケル・デル氏と組み、約250億ドルでDellを非公開化。PC市場の成熟や株価低迷を背景に、公開市場の短期的な圧力から距離を置きながら、同社は事業変革を進めた。
ただし、この案件をSilver Lake単独の“再生劇”と捉えるのは正確ではない。マイケル・デル氏はCEOとして経営を続け、非公開化後の変革でも中心的な役割を担ったからだ。Silver Lakeは重要な出資者・パートナーではあったが、事業変革を外部の投資ファンドだけが主導したわけではない。
今から約10年前、2016年5月に米ラスベガスで開催された「EMC World 2016」の基調講演で筆者が目にした光景は、その構図を象徴する場面だった。当時、EMCのCEOだったジョー・トゥッチ氏は、Dellによる買収完了を前にマイケル・デル氏を壇上に招き、EMCのエンタープライズIT事業を託す意思を示したのだ。両氏が握手を交わして抱擁する場面は、EMCが築いてきた事業をDellが引き継ぐ、というメッセージを顧客やパートナーに印象づけるものだった。
非公開化後の事業変革を象徴したのは、まさに同年9月に完了した約670億ドルのEMC買収である。DellはEMCを傘下に収め、同社が保有していたVMwareの支配持ち分も手にした。これにより、PC事業を大きな基盤としていたDellは、サーバー、ストレージ、仮想化を含む“企業向けIT基盤”へと事業ポートフォリオを広げていく。
この変革には、パブリッククラウドの台頭によって変わる、企業IT市場への対応という側面もあった。Dellの狙いは、AWSなどのパブリッククラウド事業者と同じ事業モデルで正面から競わず、オンプレミスとクラウドが併存する環境でサーバー、ストレージ、仮想化、データ管理を組み合わせることで、企業ITの基盤を広く担うことにあった。2018年には、VMware持ち分の価値に連動するトラッキングストックを整理する株式交換を通じ、Dell Technologiesとして公開市場に復帰している。
再上場までの道筋は単なるコスト削減ではない。非公開化という資本政策とEMCの大型買収を組み合わせることで、PC中心のイメージが強かったDellをハイブリッドクラウド時代のIT基盤を担う企業へと再定義するものだった。そして、その実行を支えたのは、資本面で関与したSilver Lakeだけではない。繰り返しとなるが、創業者 兼 CEOとして顧客や従業員、パートナーに事業の連続性を示しつづけた、マイケル・デル氏の存在が大きかった。
Workdayの買収提案に話を戻すと、Dellで成功した変革モデルをWorkdayにそのまま当てはめられるわけではない。Dellには、ハードウェアやストレージ、仮想化といった補完的な事業資産を組み合わせ、提供範囲を広げる道筋があった。加えて、マイケル・デル氏がCEOとして経営を継続し、変革の方向性を内外に示すという条件も備わっていた。
一方、Workdayが市場から求められているものは、人材・組織・財務に関わる基幹業務へとAIを安全かつ継続的に実装し、ユーザー企業の現場で使われつづける製品とすることだ。つまり、企業価値を左右する要素は、コスト構造の最適化や事業ポートフォリオの組み替えだけではない。人事・財務の業務知識を有する人材とAI・製品開発を担う人材の協働、顧客データへの信頼性、製品開発の連続性、パートナーを含むエコシステムの維持・強化も問われる。
もちろん、非公開化することで短期的な市場評価に左右されず、長期投資を進めやすくなる側面はあるだろう。しかし、AI時代のエンタープライズSaaSで問われるものは、資本政策やM&Aを通じて事業の枠組みを組み替える力だけではない。Workdayのプロダクト、組織、人材といった無形資産を傷つけずに強化すること。そして、その変革を社内外に納得感をともない示せる経営体制を築けるか。これらが買収観測を評価する際の焦点となる。
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谷川 耕一(タニカワ コウイチ)
EnterpriseZine/DB Online チーフキュレーターかつてAI、エキスパートシステムが流行っていたころに、開発エンジニアとしてIT業界に。その後UNIXの専門雑誌の編集者を経て、外資系ソフトウェアベンダーの製品マーケティング、広告、広報などの業務を経験。現在はフリーランスのITジャーナリスト...
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