まさかのトラブルなし オンプレからマルチクラウドへの移行
「物足りない…」―ゴルフダイジェスト・オンライン(以下、GDO) 経営戦略本部 本部長 CTO 渡邉信之氏は不満を口にする。一体、何が物足りないのか?
GDOは2017年2月にIT基盤を一気にクラウドへ移行した。新規サービスなど先行してクラウドを利用していたものはあれど、オンプレで稼働していたシステムを一度にクラウドへ移行したのだ。しかも利用するクラウドはAmazon Web Services(以下、AWS)とMicrosoft Azure(以下、Azure)、マルチクラウド体制への移行だ。
渡邉氏は移行でトラブルが起きることを覚悟して本番を待ち構えていた。しかし、致命的なトラブルは起きず、実にスムーズに作業は終了したという。渡邉氏の不満はトラブルが起きずにあっさりと移行が終了したため。
「自席の後ろにはホワイトボードを設置し、ペンを新調し、徹夜作業が数日続いてもいいようにカロリーメイトを買い込んだりして(笑)、万全の準備でトラブルが起こるのに備えていたのですが、なにも起こりませんでした」と実に口惜しい様子。裏を返せば、それだけ移行が簡単になったということだ。
「システム移行時の景色も様変わりしましたよね。前は寒いサーバールームで作業したり、(データが記録された)テープを抱えてタクシーに乗ったりしたのに。今ではいつもと変わらない職場の自席から作業すればいいだけですから。ゆとりがありますよ」
時間も費用もかかるシステム刷新プロジェクトなんて、もうやりたくない
GDOは2000年に設立。ゴルフ場オンライン予約サービスから事業を開始した。後にゴルフ競技コンテンツ(メディア事業)、ゴルフ用品販売サイト(eコマース事業)、ゴルフレッスンなど、「ゴルフで世界をつなぐ」をモットーにゴルフに関する事業を幅広く展開している。
クラウド移行前となるIT環境は2009年ごろからデータセンターで稼働していたもの。おおよそラック3本分、200台強のサーバー規模だ。それ以外にもさらに社内システム系やDWHなどのシステム、ネットワーク機器等が収まっている4本ラックがあり、サーバー100台分程度のボリュームがあった。合計7本のラックをクラウド移行したことになる。
以降のきっかけは2015年。「2017年にサポート終了」の通知を受け、事業者から提案された次期システムに乗り換えるか、別の選択肢をとるかの岐路に立たされた。
そこで渡邉氏は「もうハードウェアは買わない」と宣言した。これまでシステム移行で何度かシステム停止のトラブルを経験しており、似たような轍は踏みたくなかった。つまりクラウドへ移行するということだ。
どの企業でもシステム移行は悩みの種。約5年ごとに繰り返し、かかる時間も費用もばかにならない。「システム移行は1円のお金も生まないのですよ。もうやらなくていい」と渡邉氏は言う。
とはいえ、数年前まではシステム移行は不可避だった。ハードウェアもソフトウェアも陳腐化するため、リスクは承知の上で入れ替えをする必要があった。しかし近年ではクラウドという選択肢が現実的になりつつある。一度クラウドに移行すれば、もうハードウェアの保守からは解放される。
GDOでは「どのクラウド事業者にするか?」は検討したものの、「本当にオンプレを離れ、クラウドに移行していいのか」はあまり議論しなかったという。ただし「シンプルさを維持すること」は重視した。渡邉氏は「システムが複雑だと運用が属人化し、リスクとなりますので」と説明する。
少し前まではクラウドを不安視する声はあった。主にセキュリティだ。念のため、セキュリティで懸念はなかったかと質問すると、渡邉氏は「オンプレでも止まる時は止まる。セキュリティも自社内で稼働していれば安全とは限らない」と回答した。
この言葉には説得力がある。実はGDOは2008年にSQLインジェクションのサイバー攻撃を受け、約10日間サイト停止に追い込まれた苦い過去がある。以来セキュリティ対策を強化し、トラブル発生時の対処行動マニュアルもしっかり整備している。
段階移行か全面移行か、AWSかAzureか、マルチクラウドか
GDOが最初にクラウドを検討したのは2014年。既存のオンプレミス環境に新規システムを入れる余裕はあまりなかったため、新規はクラウドサービスで稼働させることにした。主に既存サービスの付加機能などフロント側の処理が多い。
2014年というと、Azureは日本データセンターを2月に稼働開始したばかりだ。当時GDOはAzureもテストしたものの、コネクションエラーが多発するなど評価は芳しくなかった。結果的にAWSを採用した。2017年2月のマルチクラウドへの移行の前に、先行していくつかシステムはAWSで稼働していた。
サポート期限切れをきっかけに、GDOでは2016年から本格的にクラウドへの全面移行を検討開始した。現場からはオンプレからクラウドへの段階的移行が発案されたが、渡邉氏は「やるなら、どかんとやれ」と一蹴した。現場の意向としては「何かの原因で総崩れになり、全サービス停止」という惨状を回避したかったようだ。
しかし渡邉氏の考えは違っていた。段階的に移行すると、段階ごとにテストが必要になり接続のパターンが複雑化する。そうすると作業が長引くと渡邉氏は予想した。「見えたんですよね。段階ごとに細かな調整を続け、だらだらと時間がかかる姿が…」。
GDOは過去にシステム刷新でトラブルを経験しており、現場が慎重になるのも無理はない。しかし移行トラブルを経験した教訓から、今ではIT基盤は環境移行しやすいようなアーキテクチャにしている。システム間連携はかならずEAI(Enterprise Application Integration)を通すように社内システム標準を定めていたのだ。
渡邉氏の命により、オンプレからクラウドへは一気に移行することが決まった。そこで移行先である。すでにAWSを使用していたため、AWSが順当だった。
ところがSAP ERPだけは別枠となった。検討していた2016年夏当時、マイクロソフトからAzureに移行することでコスト的に有利になる提案があった。GDOはそれに乗ることにした。
コストメリットがあるとはいえ、AWSに加えてAzureも利用するとなるとマルチクラウド体制になる。シンプルさを維持するという前提が崩れてしまう。その点については、経営企画本部 インフラマネジメント室 室長 白尾良氏は「SAPのシステムは外部との接続がありません。クローズドなものだけAzureにまとめるので、これはこれでシンプルです」と説明する。これには渡邉氏はうなったが「許容範囲」として認められた。
渡邉氏は許可したものの、内心では反対だった。何か問題や制限が見つかり、結局はAWSに一本化するのではないかという予想が「95%」だったという。Azureは2014年の評価時よりレイテンシーは改善されたものの、Azureの仮想マシンでシステム再起動が起こるなど気がかりな問題がしばらく残り、不安もあった。しかし結果的にはAzureに致命的な問題はなく、2017年2月の移行本番では晴れてAWSとAzureのマルチクラウド体制へと移行できた。
適材適所でクラウドベンダーを選べる体制を構築できた
Azure採用の大きな理由はコストメリット。シンプルさを維持する点では許容範囲内とみなされた。加えて渡邉氏はこう補足する。「今回の決断は特定のクラウドベンダーにロックインされるのを防ぐことができたと考えることもできます。Azureは近年急速に性能や機能強化が進んでいますし、今ではGoogle Cloud Platformも有力です。適材適所で柔軟にクラウドベンダーを採用していきたいです」
IT基盤をオンプレからクラウドへ移行したことは大きな変化ではあるものの、使用するアプリケーションは同じなのでエンドユーザーには違いはないはずだ。しかし経理など現場からは「早くなった」と絶賛する声が届いているという。システム運用チームからは「Azureポータルのデザインが洗練していて、使い勝手がいい」と好評だ。
移行で問題が生じなかったのは、過去の経験から「移行しやすいIT基盤」を固めてきたことが大きい。教訓の積み重ねが実を結び、マルチクラウド体制への移行という難関を成功裏に終わらせることができた。
渡邉氏は今後の展望についてこう話す。「これからのIT投資はマーケティングです。顧客接点を考えて最適な技術やサービスを活用していく必要があります。クラウドベンダーの競争が激化しているため、複数のクラウドサービスを使い分ける、つまりマルチクラウド化は必至と考えています。今回の移行ではクラウドベンダーやプラットフォームに依存しない体制(アーキテクチャ)を構築できたと自負しています。これからも技術の最新動向にアンテナを張り、最適なサービスを選択していこうと思います」
渡邉氏の言葉からは「いい条件があればいつでも乗り換える」という意欲がうかがえる。渡邉氏はこうも言う。「今はマルチクラウドは複雑で煩雑と思われていますが、将来はどのクラウドでどのサービスを利用していようが意識することなく、透過的に使える日が来るような気がするんですよね」。