タイムリミットは30歳 社長になるために学部も就職先も選んだ
吉積さんは小学生の時から「30歳までに社長になる」と固く心に決めていた。もともと頭の回転がよく、成績優秀だった。なかでも数学は得意で、「満点が普通」のトップレベル。加えて幼少時に母親から「あなたは東大に行くのよ」と言われたことが頭に残り、その通りに東大に進学した。余談だが、吉積さんの兄も東大合格を果たし、「その時点で母は満足したみたいです。三男なので自由に生きています」と吉積さん。
「目指すは社長」なので、東大入学後は社会を学ぶために様々なバイトを渡り歩いた。それこそ家庭教師から日雇い労働まで、片っ端から。バイトに明け暮れて勉強を疎かにしたせいか、専攻する学部や学科を決める「進振り」では選択肢が限られてしまった。東大の進振りでは教養課程における成績上位者から順に内定するためだ。
専攻にはあまりこだわりがなかった。当時の吉積さんが社会に出て役に立つものと考えていたのが「ブラインドタッチ(タッチタイピング)」。「志が低いですけど」と吉積さん。これが学べる学科として、残された選択肢から精密機械工学科を選んだ。研究は「剛体運動シミュレーションの高速化」。C言語を用いた行列計算だそうだ。 就職活動では商社とコンサルティング会社に狙いを絞った。社長との接点がありそうだからだ。当時は就職氷河期で、正直すぎる吉積さんは面接でことごとく落とされた。なかでも「商社は見栄を張って話さないと受からない(その先もそうして生きていないといけない)」と、商社は自分に向いていないと感じた。最終的にはアクセンチュアに就職先が決まった。
アクセンチュアに入社するとプログラミング能力の高さからテクノロジー部門に配属され、当初はインフラ構築を任されることが多かった。「おれ、今日は世界で一番(多く)Oracle製品をインストールしたかも」という日もあった。それだけSIとしての実働経験を積んだ。
とはいえ、インフラ構築作業を続けるだけでは社長になれない。アクセンチュアの後に、起業に備えて「日本の普通の企業で社会を学ぶ」つもりでいた。転職を考えていたころ、アクセンチュアが小売業向けソフトウェア販売を手がけるプロクワイヤを設立し、吉積さんはここにエンジニアとしてジョインすることに。スタートアップに近い環境であり、待遇はアクセンチュアと同じで悪くない。ここで数年過ごした。
アクセンチュアからプロクワイヤまで、忌憚なく話す「トークストレート」の文化は性に合っていたし、エンジニアとしての経験もかなり積んだ。「とても居心地がよかった」ものの、30歳が目前に迫り、吉積さんは退職して起業準備に専念することにした。
退職の段階で起業準備ができていたかとたずねると吉積さんは「できていませんでした」とあっさりと言う。まずは親戚をたより旅行をしながら「社名を考えた」そうだ。事業内容の計画はと聞くと、あまり考えていなかったかのような表情で「IT系の何か」と苦笑いする。