「人的資本経営」──人材をコストではなく資本とみなす
戦前の日本では、ホワイトカラーの社員とブルーカラーの工員が区別され、社員を管理する人事管理と工員を管理する労務管理となっていた。それが戦後になり社員、工員の区別があいまいとなり、雇用や労働時間、給与や教育訓練などの人事管理と、労働組合や従業員からの苦情対応などの労務管理が合わさり人事労務管理となる。
1990年頃からは、欧米を中心に新しい従業員管理の考え方である「人的資源管理(Human Resource Management:HRM)」が登場する。HRMは企業の戦略と密接に結びつき、戦略を実現するために人材を管理する。さらにここ最近は、サステナビリティ経営の1つとして働き方を捉えるようになり「人的資本経営」という考えも生まれた。これは人材を「資本」と捉え、その価値を最大化して中長期的に企業価値を向上させるものだ。国内でも2022年8月には内閣官房が「人的資本可視化指針」を策定し、2023年度から上場企業は人的資本に関する情報開示が義務付けられた。企業は新しい人的資本経営をどう捉え、義務付けられた情報開示にどのように対処すれば良いのだろうか。
経済産業省では、人的資本経営を「人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方」と説明している。つまり、従来のHRMと人的資本経営は人材を育てて経営に生かす点では似ている。しかしHRMでは、人材を資源(Resource)としてきたため、人件費というコストを減らし利益を出すとの文脈で捉えることが多い。
一方でここ最近は、企業経営ではサステナビリティ、つまりは持続性を求められる。「持続的であろうとした際に、人材は資源ではなく資本と捉えるべきではと考えるようになりました」と言うのは、1997年に人事領域を専門にSAPの導入コンサルティングサービスを提供する会社として設立した株式会社オデッセイの代表取締役社長 秋葉 尊氏だ。
ESGと人的資本経営
人的資本経営が生まれた背景には、2006年頃からの企業の成長を計るには財務諸表ベースの情報だけでは不十分との考えがある。その後2008年にリーマンショックが起こり、投資家は財務諸表からは短期的な経営状況しか見えないことを痛感させられる。これらから2008年以降、ESG(Environment:環境、Social:社会、Governance:企業統治)の観点で企業を評価する流れが生まれる。「現状企業は、ESG観点で情報を開示しないと投資家に評価されなくなっています」と秋葉氏。そしてESGの中のソーシャルに含まれる代表的な指標が、人に関わるものだ。
まずは欧米でESG経営の動きが活発化した。特に欧州では現状、株主総会などでESGに関わる質問が出るのは当たり前だ。一方日本は出遅れていたが、コロナ禍を経てさらにはAIなどの登場で、働き方や企業のビジネス環境が変わる中で人の視点が重要との認識が強くなっている。
人材版伊藤レポート
そして日本で人的資本経営に大きく影響を与えているのが、2014年に経済産業省から公表された「伊藤レポート」だ。これは、伊藤邦雄 一橋大学教授(当時)を座長とした経済産業省の「『持続的成長への競争力とインセンティブ~企業と投資家の望ましい関係構築~』プロジェクト」の最終報告書だ。レポートでは持続的成長の促進が議論され、企業による長期的なイノベーションに向けた投資を促し、企業と投資家の協創が必要とされている。
2017年にはアップデート版の「伊藤レポート2.0」が出て、より長期的なイノベーションのための投資の具体的な内容が示された。2020年には持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会が開催され、中長期的な企業価値の向上につなげる観点から人材戦略に関する経営陣、取締役、投資家それぞれの役割や、投資家との対話のあり方、関係者の行動変容を促す方策等を検討、その結果が「人材版伊藤レポート」として2020年9月に公表される。
2021年7月からは人的資本経営の実現に向けた検討会が始まり、持続的な企業価値の向上に向け経営戦略と連動した人材戦略をどう実践するかの事例集を「人材版伊藤レポート2.0」として2022年5月に公表。2022年8月には、一橋大学CFO教育研究センター長となった伊藤氏を発起人とし「人的資本経営コンソーシアム」が設立、人的資本経営の実践に関する先進事例の共有、企業間協力に向けた議論、効果的な情報開示の検討が進められる。これらの過程を経て、経産省は人的資本に関する情報開示の義務化を決めた。